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暮らしも、しごとも、トトノエル

「結局あなたは、整えることが好きなんだね」

次の仕事は何をするの?と聞かれたので「混沌とした部署の業務整理とか、オペレーション周りを整えたりすると思う」と伝えると、古くからの仕事仲間はこう言った。

もともと部屋を整えるのは好きだし、新しいプロジェクトの立ち上げに関わる仕事が長かったから、混沌とした環境の中で仕分けしながら業務を進めることにも慣れている。

それでも、私にとって「整える」ことは、あくまでプライベートの趣味や嗜好のようなものなので、しごと自体を「整える」対象としたこの言葉は、とても新鮮だった。

確かに「整えること」を基準に自分を照らしてみると、スっと真ん中に軸のようなものができて、バラバラなパーツがひとつにまとまるような気がする。

そもそも私は、いつから整えはじめたんだろう。

完璧主義の母と、完璧な部屋

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思い返してみれば、私の実家はいつも片付いていた。それどころか、遡れる限り記憶を辿ってみても、家の中が散らかったり物が定位置に収まっていない日を見た覚えがない。

母が専業主婦だった時はもちろん、スーパーでパートをしていた時もいつも部屋は整っていた。それが当たり前だったから疑問にすら思わなかったけど、もしかしてこれはすごいことなのかもしれない。

母ほどではないけど、父も片付け上手だ。そんな片付けスキルが高すぎる両親に育てられた私は、ときどき物を出しっぱなしては「きちんと仕舞いなさい」とよく怒られていた。

そんなだったから私は、どちらかと言えば自分を片付けられない人間だと思っていた。それが自分の思い込みだとわかったのは、小学生の時に友人の家に遊びに行った時のこと。

両親が共働きの友達の部屋は、汚部屋とまで言わないまでも、家の中全体が足の踏み場もなく、子どもだった私には、なかなか衝撃的だった。

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いつの間にか、友達の部屋を訪れたときは、先ず部屋の片付けをして座る場所を確保してからお喋りをしはじめるのが恒例になっていった。

そう考えると、私が整えはじめたのは小学5年生からということになる。

やっぱり、遺伝かな…。

そう思いかけて、いやまてよ、と思いなおす。私は多少のホコリも気にならないし、疲れているときは、部屋の隅に脱いだ洋服が小さく丸まってることだってある。母なら絶対にしないことだ。きれいな状態が続くのは心地いいけど、母のような綺麗好きとは、種類が違う気がする。

せっかくだから、私にとって「整える」とは、どんな意味があるのか、もう少し考えてみようと思う。

牛骨のデッサンと、私

たとえば、テトリス。画面上から降ってくるブロックを隙間なくぴったり揃えていくとブロックが消えて、得点が増えていくゲーム。

部屋の中を片付けているときは大抵、私の頭の中にはテトリスが浮かんでいる。

引き出しの中の収納ボックスがピッタリ収まったとき、頭の中のテトリスは、ピロピロピン!と鳴って高得点になる(音の記憶は曖昧なので、各々イメージしてもらいたい)。

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テトリスの高得点はともかく、その瞬間、私の脳内には快楽物質が出ていることは間違いない。ただそれは、私が片付い衝動に駆り立てる理由ではない気がする。もっと本質的なところに理由があるのではないか。

思いあたることがもうひとつあった。デザインの専門学校でデッサンをしていた時のことだ。

デッサンは嫌いじゃないけど、好きでもない。鉛筆で対象物の比率を測って、紙に写す。そんな地味な作業を延々と繰り返すのは正直退屈で、しかも出来上がった作品は、いつもイマイチだった。

その日はいつもの石膏像ではなく、牛骨だった。それが理由か分からないけど、珍しく私は夢中になって描きつづけた。途中で先生に肩を叩かれて呼ばれても、気づかなかったほどだ。

私の作品を見た先生は「面白い」と褒めたあと「もっとラインや曲線、奥行や影の細かな濃淡のひとつひとつの表現にこだわってごらん。」とアドバイスした。

あまりにも昔のことなので記憶が定かではないが、確かこんな事を言われたと思う。

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見えているようで、見えていなこと

そうか。やっと気づいた。

私は今まで、見ているようで見ていなかったんだ。見ているようで、見ていないこと。気づいているようで、気づいていないこと。知っているようで、知らないこと。

本質を見極め、不要なものを取り除いていく。そうすることで、本来の輪郭が明確になる。

それはそのまま、自分自身にあてはまる気がした。そしてもっと私にとって「整える」ことの意味を突き止める必要があると感じた。

子どもの頃から母が喜ぶ正解を選択していた私は、いつしか自分自身を見失っていて、早急に自分を知る必要があったからだ。

ひとつひとつ物と向き合いながら整えるたびに、頭の中の霧がはれていく。気持ちが穏やかになる。自分が何をしたいのか、どこに向かっているのか、現在地はどこなのか。全ての輪郭が見えてくる。

ようやく、腑に落ちた。整えることは私にとって、自分と向きあうために内省する手段だったんだ。

今日も私は、トトノエル

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今日も私は、整える。キッチンの引き出しに収納グッズがピッタリ収まるたびに、押し入れの中に空っぽな空間が増えるたびに脳内に溢れる快楽物質に、心地よく浸っている。

今日も私は、整える。誤解が絡みあった人間関係を紐解いてゆく。無駄なことを省きながら、信頼関係を紡いでゆく。

暮らしも、しごとも、整える。これが、私の中心にあること。私が私であるための、大切な手段。これからも私は、整えてゆく。

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