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3月11日を迎えて (第1話)

あの日から9年が経った。東京に住んでいた私ですら凄まじい日だった。地震が起こった瞬間からテレビはニュース速報ばかり、関東エリアのどこかの工場で火災が起こっている映像を見たのを覚えている。

この後、被害はどんどん大きくなっていった。最終的には2万人以上の命が失われ、原発事故は今もなお解決の見通しがついていない。発生から数日後に、未曾有の事態と表現されるようになった。当時の事を思い出すと今でも胸が詰まる思いがする。本当に衝撃的だった。

起きてしまった事は極めて残念な事だが、今となって振り返ると、この日以降に私の身の回りで起きた事がきっかけとなり、その後の生き方を良い方向へと変えられたと思える。今だからこそ思えるんだ。せっかく今日は3月11日、振り返ってみようと思う。

【地震発生〜その日の夕方】

地震発生時はまだ家にいた。

その時、私は新宿寄りの代々木で働いていた。そこはこじんまりとしたバーで食べ物はお酒のおつまみくらい。お食事がしたい方には姉妹店のジャズ演奏のある老舗ダイニングバーから取り寄せていた。

お店のオープンは夕方17時で、出社は16時にすれば余裕で間に合った。家からお店までドアtoドアで15分、地震発生時はちょうどベッドから起きかける頃だった。

その瞬間、一気に心拍数が上がった。テレビをつけて状況把握につとめつつ、急いで出勤の準備をした。携帯はすぐにほぼ繋がらない状態になっていて、当時はまだショートメールとかだったような、とにかくなんらかの方法で家族には連絡をした。そしてお店に向かった。

小走りで向かいながらお店の中のことを想像した。お店はバースタイルなのでガラスが沢山ある。お酒の瓶やグラスだ。もしそれらが壊れていたら営業はできないだろう。

お店は地下にあった。これが幸い、被害はビールサーバーのガスボンベが倒れただけで、グラス一つ割れていなかった。水も出るし、電気も止まっていない。インフラ的には営業ができる。

でもメンタルは違った。すでに家族全員と近しい親戚の無事は確認できていたが、私の実家は茨城県大子町、福島との県境の町なのだ。震源地から近くに住む家族が心配だった。命が助かっていたとしても、今私は働かなきゃいけないのか?と感じていた。

東京で一人暮らしの私は潜在的には心細かったんだろう。お店の被害がほとんどない事を確認したあとになって、正直、私は家族のもとに帰りたかった。

【営業開始以降】

17時、時間的にはいつもと変わらずお店を開けた。

いつもの店内であれば軽快なジャズをBGMとして流していた。古くさいスィングジャズの日もあった。とにかく、私が心地よい音楽をその日の気分で決めて流していた。姉妹店のジャズバーに出演するミュージシャンのCDを流したりもしていた。

お店の壁には30インチくらいの液晶テレビが設置してあり、そこにはいつもであれば映画を字幕で、音声は消した状態で流していた。雨に歌えばとかローマの休日とかがお気に入りだった。

しかし、その日はBGMを消しニュースを流すようにした。お店の灯りもいつもより明るく、扉は常に開けて万が一に備えながら。

・新宿方面から人の波

17時にお店を開けたがこんな状況だ、当然お客さんは来なかった。来るはずがない、この状況で誰がお酒を飲みに来るんだ。

お店から階段を上がり地上に出てみた。凄い光景だった。新宿方面から途切れる事なく、スーツ姿の男性とOLさん達が列をなし歩いていた。いつもはガラリとした一本裏の通りが、浅草の中店通りや裏原宿通りにでもなったのかってくらいの人だった。

・都心から食べ物が無くなる

まずはコンビニから、あっという間に食べ物が無くなった。続いてすき家や吉野家。マックまで売り切れになった!私は昔、マックで働いていてどのくらいストックがあるのか知っている。冷蔵品と冷凍品のストック量は違うので一概にも言えないが、売り上げ金額分としては2.3日分の原材料はストックしてある。それがたった数時間で売り切れたのだから大変な事だ。

夜の20時頃だっただろうか、食べ物はありませんか?というお客さんが見え出した。単なるバーにまで食べ物を求めるお客さんが来はじめたので、このニーズには非常に驚いた。だが、この驚きもその後に大事なファクションになる。

あとトイレ貸してくださいという方も数人こられて、もちろんお手洗いはお貸しした。そして店内に入ってこられた方は一様にテレビのニュースを少し見てから帰られた。

【心境に変化】

20時くらいになってくると常連さんが数人、ほんの数人だが来てくれた。中には練馬から自転車を飛ばし来てくれた方もいた。嬉しかった。

姉妹店のジャズバーにもお客さんが来だして、出演予定のミュージシャンもなんとか来ることができて、予定通りライブを行った。皆でお互いに「大丈夫だった?」と、安否確認をしあいながらだ。

人命に関わることで言えば、結果的に東京ではそれほど大きな被害は出ずに済んだ。幸いな事に、私の身の回りでは友人知人、お店のお客様も含めて、地震が直接的原因で亡くなった方は誰もいない。

なのでひとまずは、皆が無事で良かったねという会話が重なった。

・一方、テレビでは…

その一方、テレビでは信じられない様な映像が流れていた。リアルタイムの映像は今では決して流れない程に生々しかった。

福島第1原発の水蒸気爆発の瞬間も当日は流れていた。建屋の屋根がバーン!と飛び上がって、煙がもくもくと立っていた。原発が爆発するって!絶対にダメでしょ!!と、危機的な状況なのは一目瞭然だった。しかし数時間後にはその映像は流れなくなったし、原発事故の情報もなかなか発表されなかった。(情報開示が不十分なのは現在もなおなことか。)当時はまだsnsが今ほど発達してなかった。もし今と同じくらいネットリテラシーが高かったのなら、もう少しまともな情報が出てきたんだろう。

そして津波の映像も辛いもので、これは現実なのだろうか?と、もうよく分からなかった。よーく見ると人が飲み込まれる瞬間すらも、津波発生直後はテレビで流れていたんだ。

引きの映像でやっと人影だと分かる程度の大きさなのだが、必死で海とは反対方向に走って高台に逃げ込もうとしている。そこに波が迫っていく。すでに高台にいる人達の悲痛な声、悲鳴…。こういう余りにも衝撃的な映像はすぐに見られなくなった。

・処理しきれない感情

私の心には二つの解離した感情があった。

自分の手の届く範囲の人たちへの感情は安心感が芽生え始めていた。皆んなほぼ無事だったからだ。

でもその外側、名前も顔も知らないけどニュースに映ってる人たちへの感情は絶望感だった。

安心感と絶望感、まさに対比する感情が処理しきれず心にあった。喜んんだ方が良いのか、悲しんだ方が良いのか、全くわからなかった。

そして、この心の状態を整理すること、それがここから先の生き方を変えるきっかけになっていく。その答えはその後に具体的に見たり感じたりしながら、つまりリアルを体験する事で少しずつ出てきた。

この生き方が変わったきっかけについて、どう言葉にしたら伝わるのだろうか、難しいところだが【社会性】を軸にして書いていきたいと思う。

つづく。

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