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(今は)諦める、を選択する。

これが回復期、というやつなのだろうか。


寛解していたところからメンタルの症状が再燃し、約半年。

最近のわたしはというと、「これがやりたい」「これが食べたい!」という欲望が出て、人混みとかに出掛けても大丈夫⭐︎という日があれば、その翌日には「いやいや無理、、、」と欲も何もなくなって、泣くだけの人になってしまうこともある。


この半年で、わたしはとにかく完璧主義で理想が高いこと、少しでもその理想から離れてしまうとムキーッと悔しくなってしまい、自分なんてダメ人間だととことん責めまくってしまうこと。

その反面で、自分の弱い体と心はかなり低空飛行をゆらゆらと続けていること。


結局はたっかーい理想に、低空飛行な自分の体をがんばってがんばって持っていくよりも、理想をぐぐっと下げて体に気持ちを合わせていく方が、幾分楽にしんどい時期を切り抜けられることを学んだ。



以前も紹介した不調のときのバイブル的な本にも、回復期についてはこう書いてある。

この頃、夫はよく「前みたいに黙って寝てくれていたほうが、めんどくさくなくてよかった」とブツブツ言った。なぜなら私の体調がクルクルと変わるからだ。急に泣き出したり、動けなくなったり、暴言を吐いたりしてパニック状態の、なんともうざい人間になってしまう。

何ができて何ができないか。それすらも自覚できていなかったこの頃は、私自身はもちろん、一緒にいる夫にとっても一番の大きな試練の時期だったかもしれない。

料理に対する「ねばならない」を捨てたら、うつの自分を受け入れられた。/ 阿古真理


こういう経過を辿っているのが自分だけじゃないというのは、安心するね。




そして最近、思うことがある。

それは「諦めて、時を待つ」ということ。



調子のいい日が出てきたことで、そういう日は特に何も考えず、緊張せず、行動したり人と話したりできることが分かった。

なんというか上手く言えないけど、待っていれば、そういう日がポツポツ出てくるのだ。


今までのわたしは、かなり頑固に、「○○せねば!」に沿って動こうとしていた。


特に子供関係のこと。


授業参観も、親子遠足も、お神輿行列も、個人懇談も、PTA総会も、ピアノの発表会も、毎日の送り迎えも、週4日ある習い事の送迎や連絡も、ぜんぶぜんぶ、自分がどんなに調子が悪くても絶対に行かなくては、と思っていた。実際、行っていた。

「行きたい?」と聞かれれば、いまのわたしの答えは「NO」だ。

でも行かないと子供に迷惑がかかる。
それもあるけど、正直に言うと、行かないと弱い自分に負けることになる、という気持ちの方が大きかった。


だから授業参観だって、戦いに挑むような気分。


それってどう考えても、わたしの「違うこと」だよなぁとふと思って。


ポツポツ出てきた元気な日には、「行きたい」と思うのだ。
「子供の様子が見たい!」と。ワクワクする気持ちも。


そうではなく、「倒れるかもしれない。また迷惑かけるかもしれない。恥ずかしい。嫌だ。どうしよう。」と思っている日は、思っているうちは、きっとまだそのタイミングではないのだろう。
(幸いわたしが行かなくても、比較的自由に予定を組める夫が行ってくれる。子供たちには迷惑はかけないはず。)





きっとそのときは、来る。

また、来る。

だから今は、「諦める」を選択する。


後ろ向きなようだけど、この選択をすることができれば、わたしはもう一歩進めるような気がする。


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