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1人で生きる傲慢さ

自分のために綴るnote
最近パッサパサに乾いていた自分の心に少しずつ潤いがやってきている気がするyumiigoです。

口では言ってたんだ。
1人で生きることを許されている私は本当に贅沢だ。有難いって。

だけど私はやっぱり分かっていなかったんだなぁとつくづく思った。

なぜ多くの人は敢えて伴侶を持つのか。
1人の方が効率的だし無駄がない。
余計な心配や想いを持たない方が平穏でいられるじゃないか。
感情に振り回されて人に迷惑をかけるくらいなら穏やかに周りに優しくいられる方がいい。

2人で

子どもの頃から割と器用だった私は、学校生活で人から遅れをとることはあまりなかった。
むしろできない子のフォローをする側にいた。

助ける側のポジションに立つことが多かったというのは、子ども時代に苦労がなかったように思われるだろうか。

先生にさえ頼られている感覚があった私は明らかに出来ない子を見下していた。
そしてフォローして"あげる"という感覚は私を傲慢にさせていた。
「なんでこんなことも出来ないの?」と手伝うふりをして急かしていたんだ。

そんな子どもが大人になるとどんな風になるか。
不思議なもので自然と大人になっていく過程で、自分の傲慢さがくじかれるようなことが度々起こるのだ。
気づけば周りを意識して人並みに気を使うようになった私。

周りのみんなはどんどん成長していく。
ちょっと人より秀でたつもりの幼い私の能力なんてみんな軽々と超えて先へいった。
そして私は平凡な大人になった。

子どもの頃の無敵の自分は、今となってはよくいるちょっと他の子より飲み込みが早くて器用なだけに生意気な子どもだっただけ。
私はウサギだったんだなあと振り返る。

今の人並みの私は子どもの頃のような傲慢さはもう無いはずだ。
人を見下したり、蔑んだりもしない。
人に対して感謝もする。
常に対等な関係を周りの人と築いていきたいと心から思っている。

そんな考えも自分を無意識に擁護しているだけなのかも。
自分さえも騙していた自意識のような気がしてきた。
結局のところ私は何も変わってなくて、傲慢さを見せないような素振りが上手くなっただけだったんじゃないだろうか。
そんなことを考え始めたんだ。

だって今も1人が1番ラクだと思う自分がいて、結婚にも興味が持てないままここまで生きてきた。
伴侶も子もいないのに焦りもない。

これまでの人生で恋愛が無かったわけじゃないけれど、結婚するとは誰に対しても思えなかった。
そんな私には何かが欠けているんじゃないかとさえ本気で思った。

誰かと一緒にいることは私にとって足でまといでしかない。
根っこでずっとそう思っていた。
誰かのおかげで今の私があるという自覚が薄い気がする。
自分一人で生きてきたと勘違いをしている私がやっぱりどこか頭の片隅にいる。

私には伴侶など必要ない。
伴侶が私に何をしてくれるというのか。
結局は煩わしいだけだろうと。

「あなたを幸せにします」
ありがちなプロポーズの台詞に
"私の幸せを勝手に決めつけるな"
とずっと思っていた。
幸せは誰かに与えられるものじゃないだろう。
結局はそんなの自己満足だろうって。

恥ずかしい。
私は1人で生きるられると豪語しながら、見えない誰かをずっと求めていたんだ。
子どもの頃大好きだった恋愛マンガの登場人物のような私だけのヒーローを。

子どもの頃から"しっかり者"のレッテルを貼られた私は、どこまでいっても1人でなんでも出来ると言われているような感覚に、いつしか自分自身も囚われた。

私以上に私を支えられる人などいない。
手を差し伸べて来る人は私を助けることなんかできない。
そんな傲慢さが私にはヒーローなどいない現実をつくった。
その考えはいつしか本当の自分の弱さにさえ自分でフタをした。

依存したくて人を求めるんじゃない。
幸せにしてもらいたいのではなくて、幸せにしたいんだ。
だから誰かを幸せにしたいのは自己満足でいいんだ。

1人で生きている私は、人から与えられるもので今満たされている。
色んな要素が叶えてくれている奇跡のバランスで私の1人の世界は成り立っている。

いつの間にかカメになっていた私。
人からもらうばかりで満足していたけれど段々人にあげたくなってきた。

ようやく人並みに自分から周りの人の幸せを想えるようになってきている気がするんだ。

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