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多数という名の暴力

今日の晩御飯はカレーかハンバーグか
多数決で決めたいと思います
待って みんな同じでないといけないの
あたしニンジン食べられないのに
#ジブリで学ぶ自治体財政
 
すいません。1ヶ月も間が開いてしまいました。
書きたいことは山ほどあるのですが、執筆時間が取れずのびのびになってしまい、タイミングを逸したものもあります(涙)が、それはそれでそのうちどこかで書こうと思います。
 
先日、ある対話の場ででてきたのが「多数決は民主的なのか」という問い。
唯一無二の専制君主が一人で物事を決めることができた世の中から民衆が政治の中心になる民主主義へと時代が移り、主権を持つ多くの主体が話し合って物事を決めることができるようになりました。
その際、多数決は意見がまとまらない場合の採決手法として確立しています。
しかし、多数決が前提とされる議会制民主主義においては、あらかじめ多数派となるための会派を構成するための議席獲得の戦いで雌雄が決してしまい、議会で実際に個別具体の議論が深まらないという問題をはらんでいます。
時には首長の提案した議案が、提案した内容ではなく首長が気に食わないという理由で否決されるという事例もあり(もちろん実際には機が熟していないだの、説明責任を果たしていないだのというイチャモンをつけて反対に回るわけですが)内容が十分に議論されず、首長へのさや当てで決する多数決に意味があるのか、という疑問もわいてきます。
さりとて、意見の相違がある場合に多数決以外に物事を決める手法がない以上、その枠組みでいかに民主的に運営していくかしかないんだけど、というモヤモヤした話になりました。
 
その場で私は、以前から多数決に抱いている違和感を述べました。
「多数決って、少数派を殺すことだって理解がみんな足りないんじゃない?」
意見が食い違う際に多数決でしか決めようがないことはわかります。
しかし多数決の結果、多数派の意見が全体の意見とされた際に、それに反対だった少数派はまるでいなかったかのように扱われる、あるいは多数派の意見に賛同するよう宗旨替えを迫られることが往々にしてあります。
私はこれを「少数派を殺す」という表現をしたのです。
「殺す」という言葉が刺激的過ぎてその場が凍り付き、そのあとの対話がぎくしゃくしてしまいましたが、なぜ多数決が民主的でないと感じる人がいるのかという点では、問題点を明らかにできたように思います。
 
多数決はときに暴力的です。
多数であることが「正しい」こととされ、その結果多数派は、少数派の意見をその意見を持つ者が少数であるがゆえに「間違い」であるかのように取り扱い、少数派を蔑んだり、その場から排除したりすることがあります。
両者は意見が違うだけで、多数決は「正しい」か「間違い」か、を決める方法ではないのに、です。
これは、議会などで実際に採決をとる際の行動だけではありません。
私たちは、社会生活を営むうえで、心理的安全性を確保するために多数派に属したいという気持ちを持っています。
みんなが思うように考え、みんなが好きなものを好み、みんながすることをする。
そうしていると安心だからです。
しかし、そうした人たちの中には、多数派が「正しい」と錯覚し、少数派を「間違い」だと断ずる人たちが表れます。
そして多数である意見や状況を「当たり前」と考える先入観によって、私たちはその価値観を支配されてしまうのです。
 
今、あちこちで「分断」という表現を目にします。
互いに意見が違うというだけでなく、その相違を理由に距離を置き、あるいは排斥し、相互に理解しようと歩み寄ることができない現象。
何かの問題に対する反対派と賛成派という分断だけでなく、所得や職業、居住する地域や環境、配偶者や子供の有無など、その人の置かれた立場、境遇の違いからくる価値観の違いが、あらゆるところで「分断」を生んでいます。
意見の相違による「分断」は、対話によって互いの距離を縮め、相互理解の橋を架けることが可能ですが、対話の前提として相手の立場、意見をありのまま許容することが必要です。
しかし多数派は、「多数」であることが邪魔をして自分たちの「当たり前」に囚われ、少数派の意見や価値観を先入観なく受け止めることができません。
少数派は、世の中の大多数が思っていること、感じていることに触れる機会が多く、自分たちの少数意見との差異を客観的にみることができる場合が多いのに対して、多数派は「当たり前」という偏見のせいで、少数派に見えている世界が見えず、想像もできず、したがって少数派を理解するに至らないのです。
 
民主主義は、すべての人が平等に扱われる権利を有していることが前提です。
多数決の結果多数であったから、少数派よりも優れているわけでは決してない。
多数派は、自分たちの意見が常に世の中の主流として取り扱われ、少数派の意見がなかなか採用されない現状を見て、それが自分たちの「正しさ」を証明するものだと感じていますが、それは誤り。
むしろ多数派の権力はその陰に圧殺されている少数派の犠牲と信託のうえに成り立っていることを自覚し、可能な限りその犠牲に敬意を払わなければならないのです。
多数決で必ず生まれる死に票は、そのまま無視できるものではありません。
むしろ、それだけの反対(あるいは別の意見への支持)があったなかで得られた結論であるということを真摯に受け止めるべきで、選挙の結果多数の支持を得たことを金科玉条のごとく振りかざし、我こそが有権者の信託を受けた唯一の存在であると喧伝することは、民主主義が多数決をその採決手段として用いていることの本質を理解していないことに等しいと私は思っています。
 
折しも参議院選挙の最中ですが、選挙の結果を各党、各候補者がどう評価するか、多数決の論理をどう理解しているかという視点で確認していきたいと思います。
 
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