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Dialogue must go on

先日よりここで対話の魅力や効用,あるいは対話の場づくりの秘訣などについて長々と偉そうに講釈を垂れてきましたが,そういう私が「おまゆう」状態になってしまいましたので,顛末を含めここで改めて振り返りたいと思います。

事の発端は私の大親友である村川美詠さんが9月に本を出版されたことです。
タイトルは「すべての働きづらさをふきとばす 公務員女子のおしごと相談室」。
現職の地方自治体職員である彼女自身がその豊富な経験をもとに,まだまだ男性中心の組織文化が色濃く残る地方自治体の職場で女性がどう働き,どう生きていくべきかを後輩となる女性公務員にアドバイスとして語りかける,大変優しい愛情にあふれた内容なのですが,そのタイトルに使用された「公務員女子」という表現を巡って,ある方(ここではAさんと呼びます)と私の間でSNS上での「議論」が巻き起こってしまったのです。

Aさんが「公務員女子という単語はジェンダーバイアスを含む言葉なのでたとえ何らかの意図,背景があったとしても公務員としては使うべきではない」というご意見だったのに対して,私は「著者があえてこの言葉を用いた意図,背景を抜きにして問題のある言葉だけ切り取る「言葉狩り」のような議論をすべきではない」という意見でした。(今日の記事ではこの意見の相違について,どちらが正しいか,という論を立てるつもりは毛頭ありませんので,あらかじめご理解ください。)

その意見の相違,立場の相違についてはお互いに冷静に受け止め,SNSでのコメントのやりとりを通じて共通理解できるところを探る「対話」を心がけていたのですが,Aさんが別の場でとった意見表明行動によりいったん沈静化していたはずのこの件があらぬ方向に波及したことで私は憤り,Aさんとの「対話」を遮断し,Aさんの言動を非難する行動をとってしまいました。
最終的にはAさんがこの意見表明行動を撤回していただいたことで,私も振り上げたこぶしを下すことができたのですが(なお,この意見表明の内容,その後の経緯については,Aさんがこの表明そのものを撤回されたことを受け,その詳細の公表を控えます。)一連の流れを振り返って,今大変もやもやしています。

もやもやしているのは「対話が大事」と言っている私自身がSNS上での意見対立を契機として「対話」の場を閉ざしたことです。
意見が違うとはいえ,最初は相手とじかに向き合い,その距離感や手触りを確認しながら対話し,冷静に論点を確認しながら意見のキャッチボールができていたのですが,その後Aさんのとった意見表明行動が意表を突くゲリラ攻撃(と私は受け止めてしまいました)だったので,その防御だけではなくこちらから反撃しないと二の矢三の矢が来ると思い,その意見表明の方法に対して反発してしまいました。
自分が許容できるルールの範囲内で可能な限り冷静に対応したつもりですが、終わってみると後味悪いです。
私がとった反撃は相手にとって嫌なことだったでしょうし、結局はAさんの持論展開を私の抵抗で止めさせたわけですので,しこりは残ります。

私はAさんの意見には一部賛同しかねる部分がありますが,ご意見自体を封殺するつもりはなく,今後もAさんやその意見に賛同する方が個人のお立場で発信されることを否定するものではありません。
SNS上で私の意見を投稿させていただいたのも,Aさんの意見をSNS上で見かけ,私はAさんと違う意見を持っているということを表明しただけで,その後のコメントやメッセージのやりとりでAさんとも意見の相違,互いの立場や視点を踏まえた共通理解に至ることができていたと思っていました。

ただ,その後Aさんがとった別の場での意見表明行動について,それまでの私とのやりとりの経緯を踏まえれば,その方法は適切ではないと考え(これはあくまでも公の場での意見表明の方法についての意見であって,本来のAさんのご主張に対する意見ではありません)憤った次第です。
しかしながら,今回のやりとりでは,私自身が少し感情的になってしまって,Aさんが不快に思われた点もあったかと思いますし,いろんな意見があっていいのに自分の意見と違うからと言ってその意見そのものを封殺してよいのか,というご批判もいただき,その点は反省し,Aさんご本人にもお詫びした次第です。

私のとった行動は一種のパワーハラスメントだったのでしょうか。
言葉の暴力を同じ言葉の暴力で排除することは適切だったのでしょうか。
ほかに方法はなかったのか自問しています。
今回、自分の著書や自分のSNS投稿への書き込みだったらここまで公然と反論しなかったと思います。
自分の意見を人に押し付けるなんて無粋だといつも思っていますし、自分がやられたら嫌なので。
それでも今回やってしまったのは、自分への直接の攻撃ではなく、SNSの世界,対話の世界でやってほしくないことを、自分の敬愛する友人の大切なものを汚すかたちで行われたことに我慢が出来なかったのだと自分を慰めています。
それは「対話」の場を荒らすルール無視の輩は許さない,という正義感の発露。
だいたい正義感なんてのは両面あって,表から見て正しいと思われることは裏から見れば正しくないように見えて当たり前,と私は常々思っているのですが,私がこの論争に加わったのがそもそもAさんの振りかざした「ジェンダーバイアスを含む言葉はどのような場面でも使うべきではない」という正義感への反論というのがベースにあるのですっきりしないわけです。

全ての価値観の存在を認める「対話」において,その「対話」の場で守られるべき正義が唯一であると主張することの矛盾。
そんな面倒な「対話」なんてやめてしまえばいい。
あえて意見の合わない人と「対話」なんかしなくても,自分と馬が合う人と仲良くしていればいいじゃないか。
意見が合わない人とは「議論」して「論破」すればいいじゃないか。
それでも意見が合わなければ,「排除」して「無視」すればいいじゃないか。
そんな考えもふと頭をよぎります。

“Dialogue must go on.”
それでも「対話」は続けられなければならない。
「対話」することをあきらめてはいけないと思っています。
「対話」の場のルールを守り「対話」の場を維持していくために,あえて「対話」のチャンネルを閉ざす。
それもまた自分を開き相手を許す「対話」の一つの過程,ありようなのだと理解することが今回の教訓だと受け止めました。
今後,私自身もこの経験で得られたものを生かし,公の場での情報発信や対話,議論の在り方,身の処し方について,自分自身を律していこうと思います。

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