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対話への叶わぬ期待

本を読んだという方からメールでご質問をいただきました。
ご本人も、対話や議論に興味があり、対話や議論の仕方に関する一種の社会活動もされているという方です。
<以下、質問コピペ>
〇〇〇〇(質問された方が参加している対話の場)に参加していつも残念に思うのは、深い対話に出会わないことです。
対話の場で、参加者はいろんな意見を主張します。
しかし、お互いの意見を理解しあうことはほとんど無くて、(対話が)いろんな意見の言いぱなっしに終わってしまうのです。
もちろん、そのような場合でも、参加者がどのような意見を持っているのかを知ることはできるので、それ自体の意義はあります。
しかし、なぜそのような意見をもっているのかを知りたいと思っても、それが出来ないのです。
例えば、なぜそのように考えるのですか?と尋ねても、ちゃんとした答えが返ってこないのです。
対話の目的は、お互いの考えを(了解しあうことができなくても)理解しあうことだと思うのですが、それが叶えられることは稀です。
対話が意見の言いっぱなしに終わらずに、深い対話へと発展するために、今村さんはどのような工夫をされているのでしょうか?<引用終わり>

「対話」の場で対話を楽しむつもりが、自分が期待したものが得られない。
大変面白く、考えさせられる質問です。
私もこれまで様々な「対話」を経験してきましたので、ご指摘のような「浅い対話」の場もそれなりに経験してきましたが、私の考え方からすればよくあることであり、ある意味当たり前のことだと思っています。
私は今回の本で、自分と相手、あるいは意見の違う者同士が相互に理解しあうために言葉を交わすことを「対話」と呼ぶことにしています。
しかし、実際には「相互に理解しあう」という部分で自分と相手の求める水準が異なっているため、自分はもっと相手の深い部分を知りたいのにそこまで開示してくれない、あるいは自分がもっと深く理解してほしいのに、そこまで掘り下げてくれない、ということなのだと思います。

しかしこれは逆の場合もあります。
「対話」の場で、そこまで知りたくないのにどんどん自分の話をしてくる人、自分がそこまで開示したくない内面にまでずかずかと踏み込んでくる人も場合によっては現れます。
一人ひとり違う個性があり考え方が違う以上、どれだけグランドルールで表面的に場を整えたとしても、その場への期待感に応じた場への順応の自覚が違えば、対話で交わされる言葉やそこに込められた思いの質が異なり、結果として自分が求める「対話」の成果が得られないということはあり得ます。
しかし、それは本当の意味で「対話」になっているのでしょうか。

私の「対話」への目覚めの原体験の一つとして、2012年5月に市長から発せられたいわゆる「禁酒令」に端を発して私たちのオフサイトミーティング「明日晴れるかな」の原型である「何とかしたい人全員集合!」が始まったという話を本の中でも紹介しています。
当時、市職員の飲酒に絡む不祥事が相次いだために、市長が全ての市職員に対し1か月間自宅外での飲酒を自粛するよう要請し、この前代未聞の事態に、市職員の間に動揺と混乱が広がるなかで、私を含めた職員有志が「何とかしたい人全員集合!」と銘打って声をかけたオフサイトミーティングは、飲酒自粛要請を受けた1か月の間に6回開催されました。

実はこの6回の中に「伝説の第2回」という逸話があります。
5月21日、禁酒令が発せられた当日に初めて集まった「何とかしたい人全員集合!」では、市職員としてこの事態をどう受け止めるべきなのか、改めるべき組織風土や職員の気質などについて、かなり建設的に語り合い「この1か月間で何か新しいムーブメントが起こせたらいいね」などという話になりました。
第2回では、その具体化について「対話」できる、という期待感をもって臨んだのですが、第1回に参加できなかったという複数の方からの求めに応じて、同じ週の金曜日、5/25に開催した第2回の参加者は、第1回に参加した建設的な意見を持つ者ばかりではなく、その日の「対話」は大荒れに荒れたのです。

この当時、私が市職員専用イントラ掲示板に、オフサイトミーティングの開催について発案し、掲示板で他の職員に呼びかけ、1か月にわたりオフサイトミーティングを開催したその都度都度の掲示板投稿をそのままnote記事として5回にわたり「ラブストーリーは突然に①~⑤」として紹介しています。
伝説の第2回はそのうち第3回に出てきます。

<以下引用>
特筆すべきは、事件直後だった1回目にくらべ、報道や職場での情報、市職員相互の情報交換等、市長の講話など、時間の経過によりいろいろな情報が与えられ、その情報量や受け止め方が各人で異なることから、集まった方々の「もやもや」とした頭の整理の前提条件が各自で異なり、第1回目のように、意見交換の中でメンバーの考え方が同質化するという方向にいかなかったのが、第1回目と大きく異なるところでした。

「禁酒令」そのものに対する反感や、それを半ば思いつきのように発した市長への不信感、自分たちはなにか変わらなければいけないのか、個人が起こした不祥事に対しての連帯罰であり、不祥事を起こしていない人間が変わる必要はないのではないか、と言った意見も、第1回目に比べ、多かったように思います。
一方で、第1回同様、今回の不祥事の遠因としての、窮屈で人間関係の希薄な組織風土や、それを生むトップの現場に対する無理解や不信、いきすぎた人員削減に焦点を当てる方もおられましたが、そもそも個々の不祥事の原因も含めた事件の詳細について詳細な情報がないなかで「自分ごと」として考えることができない、という意見もありました。

全体の感想としては、それでも「言いたいことが言えてすっきりした」という人もいれば「もう少し自由に発言できたほうがよかった」という人もおり、一方で「焦点を定めずに各自が思い思いのことを述べるだけでは、議論が拡散するだけで意味がない」という人もいました。まあこれはミーティングの目的と運営手法、それと集まった方々の期待感との齟齬によるものではありますが。

この混沌ぶりは当たり前の話であり、ここに来ていない多くの方々まで含めれば、本当に多様な受け止め方があるはずで、自分のように「腑に落ちる」ことにこだわらず、淡々と日々を過ごしている方も多数おられるはずなのですが、第1回目で集まったメンバーでなんとなく同質化してしまったことで、少し自分自身、無理に「腑に落ちる」ためのレールを敷こうとしてしまったところがあったかと少し反省しています。<引用終わり>

私はこの日のことを忘れたことがありません。
「対話」の場に訪れる人は、自分と同質だとは限りません。
むしろ、その場にいる人の多様性は世の中の多様性の写し鏡であって、自分が話したいこと、聞きたいことだけを楽しむことができる内輪話の場にならないことも当然あるし、変に期待してはいけないのだとこの時痛切に感じました。
それが「すべての人が適任者」という対話の本質を私が心に刻むことになった原点です。

少し本題から外れましたが、私は今、対話の本質をこのように理解しているので、自分が期待していた対話にならなかったということについて、失望することはありません。
もう少し、自分が相手の言葉を拝聴できていればもっと心を開いてくれたかもしれない、あるいはもっと自分が内心をさらして自己開示すれば、もっと理解してもらえたかもしれない、と思うことはありますが、逆に、相手が期待していた対話になっていたのか、何か足りなかったのではないか、もっと相手が楽しめるように工夫できたことがなかったか、など、相手のことを理解し、許容し、その相手との対話を楽しみ、相手にも楽しんでもらうという努力と、そういう「対話力」が身につくための場数が必要になると思っています。

★2021年6月『「対話」で変える公務員の仕事~自治体職員の「対話力」が未来
を拓く』という本を書きました。
https://www.koshokuken.co.jp/publication/practical/20210330-567/
★2018年12月『自治体の“台所”事情“財政が厳しい”ってどういうこと?』という本を書きました。
https://shop.gyosei.jp/products/detail/9885
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