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手段としての対話

職場内や職場間,あるいは組織間,社会全体での情報共有,意思疎通,相互理解が不足しているので「対話」が必要だ,なんてことがよく言われます。
この文脈で「対話」は,情報共有,意思疎通,相互理解の不足を補う,問題解決の手段として述べられており,私もこれまでの記事の中で,問題解決の手段として対話が有効だとお話ししてきました。
しかし「対話」はそもそも,何らかの問題を解決する手段なのでしょうか。

実際にこれらの不足を当事者が課題と感じ,解決したいという意思がある場合にはその手段として対話が必要だという理解に至りやすいのですが,当事者にこの課題認識がない場合はどうでしょうか。
例えば片方あるいは双方が,情報共有,意思疎通,相互理解の必要性を感じていない場合,あるいはすでにできていると錯誤している場合。
「対話」が成立しないといくら嘆いても,本人たちにその気がないのですから「対話」が問題解決の手段として採用されるはずがないということになります。

また,対話による情報共有,意思疎通,相互理解がなければ,職場のチームワークが保てず,あるいは関係者の協力が得られにくく,仕事が進みにくいはず,だから積極的に対話を推進しなければ,という三段論法も問題です。
仕事が進まない理由を当事者がどうとらえるかは様々で,仮に「対話」がその仕事を進めるうえでの問題解決の手段の一つであったとしても,当事者が仕事を進めるという目的に最適だと考える手法が採用されるだけで,「対話なんてまどろっこしいので,自分一人で頑張るしかない」「意見の相違は力でねじ伏せればよい」などと考え,「対話」以外の手法に頼る人も当然いるでしょう。

実はこのような局面で,こうした問題を解決するための「手段としての対話」を論じることはあまり意味がないのではないかというのが今日の視点です。
再三述べているように,対話の重要な構成要素は「開く」と「許す」。
「開く」は自分の持っている情報や内心を開示すること。
「許す」は相手の立場、見解をありのまま受け入れること。
それぞれ,対話の場に臨む当事者の内面に深くかかわり,中でも特に「許す」ことは,「相手の属性に基づく先入観を排除し公平平等に扱うこと」と「自らの固定観念、常識、先入観をいったん脇に置くこと」,つまり,人として人とどう向き合うかという倫理観の問題ではないか。
そうであるならば,より効率的,効果的に目的を達成する手段として役に立つかどうかのモノサシで論じられる筋合いのものではないと私は思うのです。

「人を殺してはいけない」
「嘘をついてはいけない」
「差別をしてはいけない」
世の中には様々な倫理観がありますが,倫理観はそれが何かの役に立つからという功利主義的な考え方で価値判断されるものではなく,また「役に立つものだから価値がある」という功利主義に優先するというのが一般的です。
しかし,仕事を進めるうえでの功利性の追求は時折,我々の倫理観と相反します。
まさか仕事のためなら人を殺していいとは言わないでしょうが,仕事のためなら多少の嘘をついてもいい,あるいは仕事のためなら多少の差別的な取り扱いもやむを得ないという考えを皆さんは100%排除できるでしょうか。
私たちは効率性や成果が優先される「仕事のため」という言葉の呪縛によって,人として当然にとるべき他人への態度,マナー,作法をおざなりにしてしまうことがあるのではないか。
「対話」についても同じで,仕事を進めるための手段としてとらえる以上,必ず「それは役に立つのか」「もっと役に立つ方法があるのならこだわらなくてもでいいのではないか」という功利主義の壁にぶつかるのではないかと思うのです。

「対話」が大して役に立たなければ,相手の属性に基づく先入観でもって不平等な取り扱いをして構わないのでしょうか。
「対話」によって得られるものが不確実であれば,自らの固定観念、常識、先入観で相手の主張を聴く価値がないと切り捨てていいのでしょうか。
そんなことはないはずです。
「対話」は本来,互いの人格に優劣がないものと認めあい,その意見,主張にも優劣がないという前提で先入観を持たずに拝聴しあうという人間尊重の思想をベースにした,人として当然に行うべき倫理的なふるまいです。
何かの役に立つかどうかで「対話」の必要性や有用性を判断すべきものではなく,役に立たないから,忙しいから,実りがなさそうだからと言って,敬愛の念をもって相手を受容することを怠ることはそもそも人として許されないのではないかと思うのです。
「働き方改革」や「男女共同参画」も同じようなジレンマに陥りがちです。
何かの役に立つからではなく,そもそも人を人として大事にする人間尊重の観点から進められるべきこれらの施策が,社会全体の生産性向上のために必要だという功利主義の議論にすり替えられ,気が付けばより生産性向上が図られる手段のほうが優先されて本来尊重されるはずの人間への配慮がおざなりにされるという本末転倒は悲劇です。
「役に立つから価値がある」という功利主義と「人として本来こうあるべき」という倫理観を同一のモノサシで図ってはいけないと私は思っています。

「対話ができている」という錯覚も同じように人間尊重の視点から確認したほうがいいでしょう。
相手をひとりの人間として,自分と対等な人格としてとらえ,それぞれと平等に接することができているか。
相手に対し,「年下(年上)だから」「女性(男性)だから」などという理由でそれぞれ差をつけた取り扱いをしていないか。
相手に,自らの固定観念、常識、先入観への同調を押し付けていないか。
そのことが,相手の心理的安全性を損なうようなことになっていないか。
親密な間柄であればあるほど,相手との関係性が長く固定的であればあるほどこの罠に陥ってしまうことは,親子や夫婦,幼馴染や閉ざされたコミュニティでの先輩後輩の関係などで考えてみればわかると思います。

「対話」は何かを実現する手段ではなく「人を人として互いに尊重し,認めあう」という,人として持つべき倫理観の具体化であるというのが私の結論です。
あなたは,周囲の人をひとりの人間として尊重し,認めることができていますか。
あなたは,周囲の人からひとりの人間として尊重され,認められていますか。
互いに尊重し,認め合うことができていないとしたら,その理由はなんですか。
どうすれば互いに尊重し,認め合うことができるようになるでしょうか。
それができるようになった結果,互いに交わす言葉が「対話」へと昇華するのだと思います。

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