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笑って許して

先日の投稿で「対話」を構成する重要な要素として「開く」と「許す」の二つを挙げました。
「開く」は自分の持っている情報や内心を開示すること。
「許す」は相手の立場、見解をありのまま受け入れること。
皆さんは、自分自身どちらがより難しいと感じますか?

対話が大事という話をしていて時々疑問に思っていたのが小規模自治体の話。
福岡市みたいに1万人以上も職員がいて一生かかっても全員とは顔を合わせることがない規模の組織内で職員同士のコミュニケーションが難しいというのはすぐに理解できるのですが、生まれも育ちも同じ地域、小さいころから互いによく知っていて、親兄弟の付き合いも濃密な関係ばかり、数百人規模の職員しかいない自治体で、なぜ縦割りの弊害だとか対話不足なんて問題が起こるのか、互いに旧知の間柄なのだから何かあれば即以心伝心で動けるのではないか、という疑問です。

大きな組織、グループの中で、顔も名前も知らない者同士で対話を始めるときは「開く」ことが難しいと感じるでしょう。
相手が何者かわからない中で、自分を受け入れてもらえるか、と言う不安から、自分のすべてを開示できず、当たり障りのない話しかできないということは誰しも経験のあることだと思いますが、この問題は一定の解決策を用意することができます。
例えばワークショップの冒頭に自己紹介を兼ねた簡単なゲームを行い、互いの心理的な壁を取り除き自己を開示しやすくする、と言うアイスブレイク手法がしばしばとられることがあります。
このアイスブレイクにより「開く」ことができるようになるのは、自分の開示した自己について相手方が必ず「許す」ことを場のオーナーがグラウンドルールとして示すことで、参加者各自がそこに「許される」という心理的安全性を感じ取ることができるからです。

しかし小さな組織、閉ざされたコミュニティの場合どうでしょう。
互いによく知った仲なのだから「開く」ことは簡単にできそうに思うのですが、実は当事者の話によると「互いに知り過ぎているせいで本音が言えない」ということなのだそうです。
旧知の仲だから何でも「許される」んじゃないの?というのは誤解で、小さく閉ざされたコミュニティでは、互いの関係性がもともと深いのでえてして発言者と意見を切り離して受け止めることができず、「あいつはこんなことを言った」とラベルを貼ってしまいがちです。
その場での自由な対話を促され、その場限りで自己開示を「許された」はずなのに、ラベルはその場を離れ日常生活に戻った後もはがされず、結局そこでの発言が半永久的にその小さな閉ざされたコミュニティで伝承され、ラベリングされ続けるのですから、やすやすと自己開示などできないというわけです。

私は転勤族で、今も大きな都市に暮らし、濃密な地域コミュニティとは無縁なので想像でしかものをいうことができませんが、ずっと同じ地域で暮らし、小さいころから知っているということはいいことばかりではないようで、ちょっとしたいざこざや対立、残ったしこりも全部覚えているということなのですね。
これでは心理的安全性を確保することなどできるはずがありません。
では、このような閉鎖的なコミュニティでは組織や立場を離れた自由な対話というのは全く成立しないのでしょうか。

一つの解決策は技術的に「許す」ことを促すために、相手方のありのままを受け入れることができるように参加者を導く場づくりの手法を取り入れることです。
私はファシリテーションの勉強をきちんとしたことがないので具体的には説明することができませんが、先ほど述べたように自己開示を促すアイスブレイクがあるのですから、相手方を許容するためのアイスブレイクやワークショップの手法もあるのかもしれません。(どなたかご教示いただけると幸いです)

参加者が互いに「許す」ことを導く場づくりの手法として最もわかりやすいのは「無礼講」ですね。
互いの身分の上下、立場の違いを脇に置いて、その場限りの無礼を許し合う、古くは鎌倉時代にさかのぼる、古来から伝わる伝統的な場づくりです。
社会の秩序維持のために身分制度が敷かれ、形式や儀礼が重んじられたなかであえて酒席の二次会では「無礼講」とされ、身分や立場の違いを超えたふるまいが許されたのは、きっと身分や立場の違う者同士が互いの考えをすり合わせ、円満に社会を営んでいくために必要な生活の知恵だったんだろうと思います。

しかしながら、現代において、例えば懇親会等で「無礼講」と言っても掛け声だけで実際には厳然と上下関係や利害関係が残り、場の空気として無視できないことは多々あり、本当の意味で「許される」というルールが徹底されていなければ、せっかくの無礼講も意味がなくなってしまいます。
ファシリテーションのツールを用いて「許す」というグラウンドルールに導いたとしても、その意味を正しく理解していなければ掛け声だけの無礼講と同じことになってしまいます。
では「許す」とはどういうことを指すのでしょうか。

対話の場で相手を「許す」というのは、相手の全存在の受容。
自分を「開く」側からすれば、自分が何者であっても、何を言っても否定されないという心理的安全性を求めますから、相手方の存在や意見に対して一切の価値判断を挟まず、ただありのままに受け止め、受け入れることが必要になってきます。
ここで一番大事で、一番難しいのは、どんな存在も平等で、どんな意見、立場も同じ価値ととらえ、その場にいる「すべての人が適任者」という立場を貫くことだと私は思うのですが、実際問題、「開く」側が期待する、すべてを「許す」側に立った時、相手のすべてをありのまま、先入観なく、平等に受け入れ、「許す」ことができているのでしょうか。

対話の重要な構成要素である「開く」と「許す」は表裏一体でありながら、その本質は「許す」ことができるかどうか、ということになりそうです。
皆さんは「許す」ことができていますか。
できていないとすれば、それはなぜですか。
どうすれば「許す」ことができるようになるのでしょうか。
この件については長くなりそうなので、後日、稿を改めて述べたいと思います。

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