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パンと曇り空

映画「アイスと雨音」を観た。

他人の汗を顔中に浴び続ける74分間。スクリーンから放出される連続爆発。終わらない刹那。

手足の自由を奪われてどこにも行けないまま、自分が泥になったイメージに思考を逃がそうとする私を、突然の轟音がスクリーンの現実に引き戻す。麻痺した時間感覚の中でちらっと腕時計を見ると、まだ開始から20分も経っていない。自分がただ傍観しているしかないときの時間の長さって殺人的だ。ナイル川より長いんじゃないか・・・(きっとナイル川の方が実際に人は死んでいるだろうけど。)そんな雑念がブレンドされた細いため息が、前の座席との間の暗闇に吸い込まれていく。


はじめにこの映画を知った時「私はこれをすきになれないだろうな」と思った。思えばほとんど動物的な自己防衛反応だったと思う。だってあの眩しすぎる高校生達を真っ直ぐ見ることなんて、28歳の今の私には出来なかった。

私は小さい頃から、歌うことが大好きだった。廊下で、お風呂で、人前で。でも、歌手になるかわりに静かに大学を出て、音楽関係の会社に入った。今年28歳になる。

東京で社会人を始めてしばらく経った頃、自分が歌えなくなってる事に気付いた。正確には、歌っていても、かつてはあった感情やエネルギー、生命力が歌の中からすっかり消えていた。そしてそのことに気付いてからは、ほんとうに歌えなくなった。ただこわくて日常の中に逃げた。

この映画の主役の名前は「想」。 読み方は「こころ」。

彼女はいつも欲のままに感情を暴発させ、泣いて笑う。

私は彼女のことがどうしてもすきになれなかった。動物のように自由な彼女。人を惹きつける魅惑的な彼女。どこか既視感のあるその人格と生き様を一切否定なんてしたくないのに、嫌悪感が芽生えてしまうのを抑えられない。どうして?

「こころは、昔の私が殺した私だ。」

だから泣きそうなくらい腹が立ったし苦しかった。

そして無理やり大人になる事を自分に強いた過去の私は、あのプロデューサーのような大人達の声を、幾度となく聞いたんだろう。きっと子猫のように従順に。どの場面も、もう鮮明には覚えていないけれど。

今泣きながらこれを書いて、この作品に出会ったことの意味がやっと自分の中ではっきりした。消化するのに二週間かかった。(それだけ重かった)

「この映画をすきかきらいか」と聞かれたら、どう答えていいか正直分からない。だって私にとってはもう、すきとかきらいとかそんな次元を超えた宇宙との出会いだった。生まれた時から絶対的に正しいことを知っていた、たった一つの存在 =「わたしのこころ」。

わたしのこころが泣いて笑う。ただそれだけのことが嬉しい。

今私が泣いてるのは大好きだったあなたにまた会えたのが嬉しいからだし、ほんとうはずっともう一度会いたかったからこの映画を観る決心ができたのかもしれない。このタイミングで再会できてよかった。やっとまた人生を始められる。

ここ数ヶ月で少しづつまた歌う事が楽しくなってきた。実は新しい曲も弾き始めた。ほんとうに好きなことは、二度とやめない。死ぬまで続けるんだ。

雨でも晴れでもない曇りの日々を、うたいながら生きていこう。



あとがき:

一本の映画が伝えるメッセージは当たり前のように多くの人生を変える。プロパガンダにもなれたそれはつまり教育にもなれる。今回映画の舞台に立った高校生だけでなく、日本中の高校生にとってこの映画は、学校ではけして受ける事のできない最上位の教育ではないか。

思春期から青年期にかけては、周りに流されて自分を見失ったまま人生のステージが進んでいく人も多い。この同調圧力の国では、とくに。(社会に出てから気づいて軌道修正している間に20代後半になってしまった、私が良い例だ・・・)

今10代の人たちが、これから旅に出る前にいま一度「自分のこころに正直になる」ことを、自分自身に染み込ませることができたなら、まっすぐに歩いていける。

自分の心の真ん中に灯った火は、歩くエネルギーになり、道を見失わないための小さなランプになる。

そう思うとこの映画をつくった松居大悟という人は、前衛的な創作者であると同時に、ほんとうに優しい教育者だ。日本にこんな人がいてくれてよかった。心からそう思う。


さいごに、今回この映画を観るきっかけをくれたプロデューサーの阿部広太郎さんに、心のいちばん底からお礼を言いたい。

阿部さん、ほんとうに有り難うございました。あなたの背中を思い出しながら、私なりに全力で生きてみます。

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