聖書の手紙
手紙が好きだ。
書くのが好き。もらうのも好き。
自分宛ではない手紙を読むのも好き。
文学者やその周辺の人々がやりとりした手紙が、研究のために公開されることがある。ちょっと盗み読みみたいで後ろめたい感じがするけれど、作品とはちがう生き生きとした息づかいを感じられて面白い。
公開を前提にした往復書簡というのもある。多くの人の目を意識しながらも、宛先の一人を思って書かれていて、その絶妙なバランスに魅了される。
聖書にも手紙がたくさん収められている。新約聖書の「ローマの信徒への手紙」から「ユダの手紙」まで。ペテロやパウロなどがイエスの教えを伝えるために各地の信徒たちへ書き送った信仰についての文章だ。わたしたちが読んでも、励まされたり、襟を正されたりする。だからこそ聖書に入っているんだろうけれど、手紙ならではの挨拶や事務連絡みたいな部分もある。
たとえばパウロがローマの信徒たちへ書いた長い手紙の結びに、誰々さんや誰々さんがあなたがたによろしくと言っています、と伝言をしている中に、突然「この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします」と口述筆記者が自分の言葉を書いているところなんて、ちょっと笑ってしまう。それって筆記のルール違反なんじゃないかな。でも自分だって挨拶したいというテルティオの熱い気持ちと信仰がよく伝わってくる。
「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します」(コロサイの信徒への手紙)という場合もある。「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」(ガラテヤの信徒への手紙)などという部分を読むと、パウロの手はどんな手で、どんな文字を書いたのだろうかと想像してしまう。
「あなたが来るときには、わたしがトロアスのカルポのところに置いてきた外套を持ってきてください。また書物、特に羊皮紙のものを持ってきてください」(テモテへの手紙)。……これらの品物が、ぶじパウロのもとに届いたのか気がかりだ。とくに外套。心は燃えていても、からだは寒くなるものだから。
こんなところまで省略されることなく、二千年ほど伝えられてきたということの貴重さを思う。
聖書が好きだ。
『バライロの日々』(2005,新風舎)所収のエッセイ「手紙について(二)」を大幅に改稿
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?