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岡井隆歌集『鵞卵亭』を読んで

 『鵞卵亭』は一九七五年、岡井隆が四十七歳の年に刊行された。あとがきには「七○年と七五年の作品のアマルガムである。」とある。アマルガムとは合金のこと。一九七○年、九州へ移住して作歌を中断したあとの「再誕」(篠弘「再誕岡井隆論」)第一冊目の歌集といわれる。六つの章、137首から成り、「鵞卵亭日乗」以降の作品が「五年間の作歌の空白ののちに詠まれたもの」(篠弘、同前)ということだ。

「浪漫的断片」にみられる若さ

   カフカとは対話せざりき若ければそれだけで虹それだけで毒

  「せざりき」と過去形だから若くはない時点から詠まれているととれるが、「それだけで虹それだけで毒」という述懐の生々しさとリフレインによる速度感には充分に若さがある。あとがきや年譜その他を信じるならばこの作品は四十二歳のときの歌。繰り返されるア段の音が愛唱性を高めている。

   女への視線ぞ孤独いらいらといちごを選びながらおもへば

  「女への視線」という外向きのものをうたいながら「孤独」と内省している。「いちご」が「女」を象徴しているのだとすればそうとうにいやらしい、いやな歌だが、やはり若さ、若い鬱屈が感じられる。「いらいら」から「いちご」への連結はみごと。

 「木の追憶から雨へ」の軽み

  この章はわずか五首で、いわば次の章への橋渡し的な軽さで置かれている。

  雨霧は若葉の谿にうず巻けど汲みあぐるすべあらずこころは

  三首目を引く。「雨霧は若葉の谿にうず巻」までは、これもア段の音を効果的につかって心地よく、描出された光景も魅力的だ。「汲みあぐるすべあらず」は「雨霧」と「こころ」の両方にかかっているのだろう。ぬけぬけと「こころは」で終わっていて観念的だが、ちからわざで納得させられてしまうようなところがある。

 「雨の記憶から木木のみどりへ」にみられる北への意識

   不吉なる北へかたよる夕焼けもむしろたのしと言ひ出づるべく

 「不吉」なのは「北へかたよる夕焼け」のことなのか、それとも「北」そのものが「不吉」なのか。「むしろたのし」と言ってはいるが、北へのネガティブな思いがほの見える。

   雨は全東北を降り覆ふとき霧ながら越ゆこころの峠

  「雨」と「霧」と「こころ」の連想がふたたび表れていて興味深いが、ここでは「東北」の語にも注目したい。正確には「全東北」。東北地方は広いから実際には全地域が同じ天気になることはあまりない。だがここでは同じ「雨」に覆われている。主体は東北に身をおいて雨に濡れているのか、東北の外にいて雨降る地域を(テレビなどで)眺めているのか。いずれにせよ明るいイメージはない歌である。

  木のみどり木下こしたのみどり過ぎゆくは若さに似つつうつくしきかな

  「浪漫的断片」にみられた「若さ」への意識がよりはっきりと表れている歌。

   湖へむかふ車中のつめたさに疾駆して去る雨の林檎樹

  「車中」から林檎の木をみるのであるから、東北地方を移動していることがわかる。すると「雨は全東北を~」の歌でも、主体は東北にいるのだろう。

 「鵞卵亭日乗」にみられる南方の影響

   玄海の春のうしほのはぐくみしいろくづを売る声はさすらふ

  ホメロスを読まばや春の潮騒のとどろく窓ゆ光あつめて

  雨迅き香春かはらの裾を過ぎしとき恋ほしさははや心うづめる

  章の前半に連続して置かれているこの三首は、明るく、健やかでちからづよい。「いろくづ」は魚のこと。「玄海」「香春」はともに福岡の知名。岡井の九州への移住は俗に「出奔」とも「逃走」ともいわれるが、南方の温かさと光線のつよさが、この歌人に(作歌を中断していても歌人は歌人なのだ)何らかのポジティブな影響を与えなかったとどうしていえようか。
 三首ともにア段の音のおおらかな響きが印象的。とくに「ホメロスを~」はよく知られている歌。「雨迅き~」は三回繰り返されるハの音が効果的で、切なくもうつくしい恋の歌と読める。「玄海の~」はいわばこの二首を導く役割を担わされている。「声はさすらふ」のところに何ともいえない哀感がありつつ、やはり全体的には明るい情景が浮かぶ。 

  青木繁的光彩の漁夫群か あらず渚の七五○ななはんむれ
  鏡像のわれの蒼さよ筑前ちくぜんへ来て蓄髯と誰かが言ひき

  泣きさけぶ手紙を読みてのぼりし屋上は闇さなきだに闇

  章後半から三首。これも続いている。さきに挙げた三首に比べると陰りがあるが、なお南方の風土の影響が感じられる。
 青木繁は福岡出身の洋画家。「漁夫群」からは彼の代表作「海の幸」が想起される。「渚の七五○CCの群」はおしゃれな表現。 
 「鏡像の~」の歌は二句までの荘重な調子を、押韻というより駄洒落に近いかたちで自らまぜっかえしている。「筑前」は旧国名、いまの福岡県北西部。「蓄髯ちくぜん」はひげをたくわえること。
 「泣き喚ぶ~」は沈鬱な歌だが、のぼった屋上の「闇」がどこか生温かいように思われる。それは前の二首に引きずられて感覚でもあるし、吹きっさらしの屋上に寒いなかのぼるほどの自罰感情を主体から感じられないからでもある。泣きさけんでいるのはあくまで手紙であって、主体はすこし冷めた目でそれを受け止めているように思われる。「さなきだに」は「ただでさえ」。闇を感受するほどの屈折は主体にあるらしい。

 「偽画流行のこと」の偽画とは

  春の夜のはげしきひがしこれの世を今し立ち退衣摺きぬずれきこゆ

  この章にいくつかある挽歌のひとつ。死を、きぬずれの音をさせて現世を立ち退いてゆくことと表現していることにはっとさせられる。きぬずれの音を聞いてしまう主体が、死者あるいは死にゆく者に深い心よせをしていることがわかる。

  薔薇抱いて湯に沈むときあふれたるかなしき音を人知るなゆめ

  ここでの「音」も現実の音ではないと思う。「薔薇」は何の比喩であろうか。異性か、詩歌か。あるいは「湯に沈む」の「湯」=「喩」なのかもしれない。そのときの音を誰も知るな、という孤独な思い。この章最後の歌。

 章題にある「偽画」がどの歌にもでてこない。人を悼む主体、歌を詠む主体、異性を思う主体、仕事をする主体、それらが作者の真実の姿の「偽画」にすぎないと言いたいのかもしれない。

 「西行に寄せる断章・他」という試み

  一 鴫と噂  
 二 ブルージン舟唄 
 三 木曾駒の秋
 四 王国は今……

 から成り、一と二の冒頭には詞書にようにも詩のようにもみえる言葉が置かれている、やや特殊な章。連作の形式のひとつの試みとして興味深い。四の最初の歌を引く。

  自画像のモチーフをあたたむといへど背景のひとなべて茫々

  自画像、ということから前章「偽画流行のこと」とのつながりを思った。自画像の構成要素となる「背景の女」つまりかかわりの深かった異性(の記憶)が総じて茫々としている、という。主体の冷たさというよりは時間と記憶の酷薄さが詠まれているように感じられた。二句から三句にかけての句またがりが、一首を読む時間をすこし長くさせ、読者を立ち止まらせる効果があるのではないだろうか。

 歌はただ此の世の外の……

  歌はただ此の世の外の五位の声端的たんてきにいま結語を言へば

  「西行に寄せる断章・他」の最後の歌のあとにアスタリスク(*)があり、この歌がある。章題はないが、前章に属するものではなく、独立してこの歌集全体の「結語」として置かれたものと解釈した。
 歌はこの世の外側で鳴くゴイサギの声である、という断定は、歌を低い、取るに足らないものと言っているのだろうか。否、むしろこの世を歌いながらもこの世に絡み取られることなく声を上げるという、矜持の表現された一首だと思う。

 「鵞卵亭」とは何か

 

 歌集タイトルである「鵞卵亭」に意味はあるのだろうか。
 ガチョウのたまご、という内容に意味はないだろう。
「ガランテイ」と読んでまちがいないとすれば、響きが「がらんどう」に似ていると思う。
 一生懸命読んでくれてありがとう、でもここは、何もないがらんどうの中にすぎませんよ、と「鵞卵亭主人」(あとがきより)に軽くいなされているような気持ちになってしまう。それすらも計算して編まれ、名付けられた歌集なのだろう。

 

※この文章は『現代短歌文庫 岡井隆歌集』(砂子屋書房、一九九五年)に収録されている『鵞卵亭』(全篇)を参照して書きました。

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