見出し画像

【14/100】 自分を大切にすることは、自分が本当に望むモノを知ること

「自分を大切にしなさい」と母親からはじめて言われたのは思春期の頃だったと思います。

わたしは当時毎晩のように、スナックを経営する母が出勤したのを見計らって、19時ごろからフラフラと出かけては日付が変わるまでにそっと帰ってくるという日々を過ごしていました。

高校生ともなると、予備校に21時までいることもざらにありましたが、高校生が夜に出歩いていてもいまほど世間からうるさく言われることもなかった時代でもありました。



わたしは親に悩みを打ち明けたことがありません。反対にいつも親の方が、「あれが大変、これが大変」と日常的に愚痴や悩みを子どもに吐き出すタイプでした。

常に泣き言を吐きだしている親に対して、子どもから悩みを打ち明けるスキがなかったのかもしれないということは、心理の学びを深めた今だから想像できることかもしれません。

わたしがクラス全員から無視されても、修学旅行でどう過ごしたらいいかわからなかったことも、異性との付き合い方も、かなり大きなトラブルになりかかったこともありましたが、親とは真剣に話をしてしませんでした。というか、できなかったのです。こちらからも、あちらからも。

トラブルを抱えた子どもだということを親が認めたくなかったのかもしれないし、話を聴く余裕が親の方になかったのかもしれないし、本当はどう思っていたかなんていまでも聴くことはできないけれど、あるときふと「自分をたいせつにしなさい」とわたしの目を見ながらボソッと言ってきた母の姿はいまも鮮明に覚えています。



「自分をたいせつにしなさい」と聞いても、それがなにを指すのか、そのときのわたしにはさっぱりわかりませんでした。

なんなら異性との関係を控えなさいと言っているのかとすら感じた気がします。

「自分をたいせつにしなさい」と言ったとき、母の意図は、実際にそこにあったのかもしれません。ただ、45歳を目前にしてわたしはやっと、なんとなくですが「自分をたいせつにする」ってこういうことかもしれないと思えるようになりました。

自分をたいせつにすることは、
自分が本当に望むモノを知ること


「自分をたいせつにする」ことに対して最近まで、物質的なモノを大切にするようなイメージの方が強くありました。たとえば身体を大切にするとか、心を守るとか。心は非物質的にも捉えられますが、わたしのなかには、目に見える人との関わりから心を守るようなイメージがありました。

「自分をたいせつにする」ことは、自分が本当に望むモノを知り、それを得ることに集中して行動することであり、その結果、さっき挙げたような物質的なモノがついてくるのではないかと考えるようになりました。



自分をたいせつにしよう!ってフレーズはよく見かけるけど、具体的にどうすることなのか学ぶ機会がわたしにはありませんでした。自分をたいせつにしているように見える大人もわたしの周りには見当たりませんでした。

振り返ると、いつも自己犠牲を払うことで、わたしは自分の価値を見出していました。その渦中では、自己犠牲を払っていることにさえ気づいていなかったように思います。自分でよかれと思ってやり始めたことも、いつの間にか嫌になる理由がだんだん分かってきました。

シンプルに「わたしが本当に望んでいない」から。つまり自分をたいせつにしてこなかったからです。



ダミーの欲求という表現をする人もいますが、本当に望むことではなく「手に入りやすそうなもの」を、あたかもそれを望んでいるように錯覚する場合があるようです。錯覚なので、無意識的に選択してしまっています。それを錯覚だと気づくためには、実際に体験するしかないのかもしれません。

望んだ(と錯覚していた)モノを手にしたときなにを感じるか。そこを体感することが「自分をたいせつにする」感覚をつかむために重要なことのように思います。

裏を返せば「欲しい欲しい」と言うだけで、それを手に入れるための行動をしなければ、自分が本当に望むものがなんなのかを理解するところまで辿り着くことはできないでしょう

なにもたいそうなものじゃなくていいのです。

カフェを訪れた自分が今飲みたいものは、コーヒーなのかそうじゃないのか。飲みたいかどうかに関わらず、席に着いた途端、自動的に「コーヒー」と口にしているだけではないか。

そこらへんをもっと精査し、日常的に自分の本当の望みを叶えていくことが、自分をたいせつにすることのように思います。



さいごまで読んでいただきありがとうございます。
連続投稿チャレンジしています。
スキで応援してくださると励みになります♡

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?