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その7 思う所

 その感情を頼りに自分の記憶を探ると、そこには幼い頃の自分がいた。

兄弟がいる。けれど皆、私を無視して話し笑う。どんな会話も私の上を素通りして、話しかけても聞こえないふり。まるで透明な箱の中に入れられて、泣いても訴えても届かない感じ。苦しくて悲しくて。……どれくらいの期間それが続いたのかわからない。けれどその時の自分には長すぎる時間だった。

 その出来事の原因は私自身の行動にあった。それが兄には許せなかった。けれどその私の行動にも理由があった。けれどそのことを、やはり幼かった兄に理解することなどできない。
仕方のないことだったと今は分かる。そして今は大切な人たちになっている。ただその時の感情だけが、未消化な状態で心の底に沈んでいた。

(私はこの感情を元に、今起こっていることを解釈していたのか。)

それは衝撃的なことだった。このことはつまり、それまで世界を歪んで認識していたということになる……。

 このことがあってから、私は自分の感情の動きを注視するようになった。心の重さに気づくと、その感情の奥の自分の認識がどうなっているのか紐解いた。そしてそれがおかしいと気づいたときは、その感情を握りしめている自分に諭した。

(勝手に解釈するんじゃない! その感情に執われるんじゃない! それ以外の捉え方があるだろう! 今はもうあの時じゃない、あの時の自分じゃないんだ!)

この作業には、かなりの時間を費やした。それほど根深く心に入り込んでいたのである。またそんな感情はそれ一つではなかった。心がまるで鬱蒼とした森のような状態だった。蔓のようにお互いに絡み合い、何処に根があるのかもわからない。一つ一つ丁寧に刈り込み、光を取り入れ、やっとのことでその根元を発見し、抜き取る。そんな作業を繰り返していくうちに、それに費やす時間が少なくなり心も軽く静かになっていった。過去の感情ではなく自分の今思う所が当たり前になっていったのである。

そう。

これは陀羅尼の始まりの部分そのものだった__。