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人類学とアート #2 ビエンナーレ

"Artistic Practice"のクラスで議論された「ビエンナーレ」とそれを人類学的に考えるための視座について、以下忘備録としてのまとめ。

ビエンナーレの歴史と位置付け

ビエンナーレ(イタリア語で2年周期の意味。英語は、バイエニアルbiennial)は、ベネチアで開催(1895年設立)されて以降、サンパウロ(1951年設立)、シドニー(1973年設立)、ベルリン(1996年設立)と続き、現在は世界に150以上あるといわれている。80年代にベネチアで最初のビエンナーレが開催されて以降、2つめのサンパウロでの開催までに56年の年月を要した一方で、90年代に入ってその開催数は急増した。

アートを展示する場としてのビエンナーレとアートフェアとの違いは、アートの売買を直接的な開催目的としない点にある。アーティストの視点から考えるビエンナーレの利点として、アーティストに直接支払われる報酬は小額にとどまることが多いものの、制作費用の全面的なサポートがあること、出展に伴ってアートフェアでの売買価格が上昇するという側面があげられる。

一方で、ビエンナーレに展示される作品は、その出展形式により「国の表象としてのアート」という側面を付与される。1895年に最初のベニスビエンナーレが開催されたとき、その展示手法は「国別」であったため(例:アメリカ館/日本館)、展示スペースの規模とその内容が、国力(=経済力・政治力)の表象でもあった。現在も、例えばアメリカはビエンナーレに出展するアーティストに多額の支援をしていて、その理由は「アメリカを代表する」アートだから(注1)。つまり、アート作品が国際社会における/ 政治・経済的なパワーリレーションを避けられないという側面がある。

加えて、ビエンナーレの組織=権力の表象である点も指摘される。ビエンナーレの企画〜制作〜展示までの期間が2年間に限定されること、その開催規模と国際的な影響力という要素によって、アーティストやキュレーターの選出プロセスが不透明かつ閉鎖的にならざるをえない側面がある。ビエンナーレを運営する財団が選出するキュレーターたちは、じぶんたちが繋がりのある/働いたことのあるアーティストを選ぶことが通例であり、オープンコールによって出展アーティストが選出されることは少ない。つまり、「誰が・どのような基準でキュレーターを選ぶのか?選出されたキュレーターたちはどんな基準でどんなアーティストを選出するのか?」という問いが、ビエンナーレの政治的側面・意向を映し出すガイドクエスチョンになるのだ。

こうした政治的な側面を踏まえて、アーティストの側ではアンチ・ビエンナーレの立場も表明される。自由の象徴であるアートを政治や権力の道具にするなってことですよね。アート批評の文脈から提示される「ビエンナリゼーション」(=ビエンナーレの数が増えたことに伴う、作品傾向の均質化に対する批判)もまた、ビエンナーレの運営組織の形態や選出プロセスと絡むパワーリレションの問題なんだろうと推察する。

インフォーマルな文化交流の場としてのビエンナーレ

講師のLidia Rossnerが、ベルリン・ビエンナーレに携わった経験から語ったビエンナーレの制作プロセスにおける非公式な文化交流としての視点は興味深かった。ひとつは、ネイティブ・ラングエージとの関係

ベルリンビエンナーレの運営母体は、ドイツ人を中心に組織されるドイツ語ネイティブである一方で、対外交渉は英語。運営母体が、非ネイティブ言語をコミュニケーション・ツールとすることで生まれる誤解やあたらしい概念が創出される場面に遭遇したという。

また、彼女が担当したパキスタン人のビジュアルアーティスト・Waseem Ahmed との間に生まれた交流の点では、彼が「パキスタン人であること」によっておこるビザの問題や公けに写してよいもの/ まずいものという倫理的側面について考察したことがシェアされた。華やかなビエンナーレではみえない、作る側の制作プロセス。

なんかこのあたり、映像人類学のフィールドークと映像化されるプレゼンテーションの関係性に似てる。できあがった作品に映り込む「調査の対象(≒ 他者)」と「調査の主体(映像人類学者)」の関係性。そこには、何が写っていて何が写ってないのか?人類学者は、どんな視座で対象を写しとったのか? 

アートを展示する/制作するプロセスは、対象とのインタラクションを通過する以上、映像人類学の調査アプローチと似通った部分があるのだと感じた。

ベルリンビエンナーレとキュレーター/テーマ

では、ベルリン・ビエンナーレを事例に、上記で指摘された権力や表象の問題はどのように具体化されるのだろうか?以下、過去のビエンナーレを参考に、キュレーターによるテーマの違いや作品の展示手法などが議論された。

第7回目のベルリン・ビエンナーレのテーマは「FORGET FEAR」。ポーランド人のArtur Żmijewskiをチーフキュレーターに迎え、アート或いはアーティストが社会や政治に果たすべき役割を問いかけた(以下のリンクは、ベルリンビエンナーレの創立者・Klaus Biesenbach との対談)。アートは、政治的土俵においてどのような役割を担うべきか?ネオリベラリズム的な言説の中で縮小した、政治や社会変化に対して人々を駆り立てるアートとしての役割は?ということが語られている。

作品名のタグをとったり(=アーティスト名ではなく、作品の純粋な価値を観賞するため)、2010年にスタートしたOccupy Movementのベルリン支部を招聘して展示スペースを「Occupy」させたり(メンバーが寝袋をもって泊まり込んだり、活動のMTG場所として活用してもらうなど)... あまりに政治性が高すぎて、資金調達や運営が大変で、ベルリン・ビエンナーレ史上・最も議論を巻き起こした回のひとつとなったらしい。

その反省を踏まえて開催された第8回目のベルリン・ビエンナーレは、アートを歴史やエスノグラフィーの観点から見つめることを主眼とした内容で、研究者を外部から召喚し、ベルリン郊外にある3拠点の博物館とベルリン中心地を繋ぐような展示を行った。

第9回目のベルリン・ビエンナーレは、NYを拠点とするアートコレクティブ・DISがキュレーションを担当。ビエンナーレのカタログには、その問題意識が以下に示されている。

A world in which investing in fiction is more profitable than betting on reality. It is this genre shift from sci-fi to fantasy that makes it inspiring, open, up for grabs, non-binary. The supergroup(s) of artists and collaborators that we have mobilized are not fatigued but energized by this uncertainty. In this climate anyone can begin to build an alternative present, reconfigure failed narratives, decipher meaning from continual flux. ... The 9th Berlin Biennale for Contemporary Art materializes the paradoxes that make up the world in 2016: the virtual as the real, nations as brands, people as data, culture as capital, wellness as politics, happiness as GDP, and so on.

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簡単にいうと、バーチャルが現実になる時代なんだから、現実に人生を賭けるよりもフィクションを掘り下げたほうが意味がある。誰もがオルタナティブな存在をつくりだし、機能しなくなった物語を再構築し、時代の流れを解読できるんだ。バーチャルがリアルに、国家がブランドに、人びとがデータに、文化が資本に、富が政治に、そして幸せがGDPとなる2016年の世界を構成するパラドクスを物質化すること、が開催のマニフェストだった。

しかし2016年は、難民たちを載せた船が毎週のようにヨーロッパ沿岸におしよせ、その死者数がヘッドラインを飾る時代だった。真面目になりすぎた第8回の反省を踏まえた先進的な内容ではあったが、あまりに現実とかけはなれた内容が批判されたという。

そんな批判を経ての第10回のビエンナーレは、南アフリカ人のGabi Ngcoboをチーフキュレーターに迎え「We Don't Need Another Hero」西洋の植民地主義的な視点への挑戦が主眼とされた。5人のキュレーターチームは、すべて非白人で構成されている。この非白人化の流れは第11回のビエンナーレにも継承されており、キュレーターチームの構成が南米系によっている。

ビエンナーレと人類学的な視座

さて、これらビエンナーレを人類学的に評価するときの視座として提示されたのが「展示されるアート作品が、どのような関係性でつくられ展示されたのか?」という点である。

人類学では、アートを収集・展示している西洋の博物館に対する植民地主義への批判が根強い(例:大英博物館に展示されたエジプトのミイラ。エジプトの死者を掘り出し国外に持ち出して、それでお金を設ける権利がなんでイギリスにあるの?)。

だから、アート作品をみるときも、西洋中心主義、植民地主義、ジェンダーの観点などを踏まえ、作品を通じて表象されるイメージは倫理的に公正なのか?という視点が重要となる。このように作品の選出・制作プロセスにおける倫理性を考察する視点を持ち込む点において、アートが展示される場としてのビエンナーレと人類学の協同実践が考慮されるるのではないだろうか?という議論でクラスが終了した。

以下、参考リンク

注1: あるクラスメイトの質問:「なぜ政府は、科学技術と違って、社会に明確な価値を生み出さないアートに投資するのか?」
Alberto Baraya: Through photography, video, found objects, and drawings, Alberto Baraya parodies colonial exploitation and its echoes in contemporary global exchange. In the 1990s, he produced ironic self-portraits, highlighting the malleability of identity through the inclusion of references to iconic works of art. Since 2001, he has styled himself as a “viajero”, referring to 18th- and 19th-century European travelers who undertook botanical explorations in the name of science and in the service of colonization. For this project, “Herbário de plantas artificiais” (Herbarium of Artificial Plants), Baraya follows the path of these pseudo-scientists, collecting, cataloguing, and displaying artificial plants. “By picking up…plastic flowers on the street, I behave like the scientists that Western education expects us to become,” he explains. “By changing the goals of this…task I resist this ‘destiny.’ In that moment all assumptions are put into question, even history.”
Okwui Enwezor, 黒人キュレーターのパイオニア。ナイジェリア出身。
Biennial Foundation, ビエンナーレの総合リンク

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