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スマートフォンへの高い壁

ガラケーはもはや絶滅危惧種!?

N子さんは長年ガラケー(3G回線)を愛用していた。転居時「電話をどうしようか?」と相談したら「携帯電話あるから固定電話はいらない」と言われた。

「親戚や友人知人にけっこう連絡するんじゃないの?」と言ったが、「転居の知らせは手紙でやるし、電話も決まった人にしかかけないから」と鷹揚に構えていた。

ところがかけ放題プランではなかったため、7月の電話料金のが1万円を超える見通しになってしまった。最初は「そのうち落ち着くわよ」とプラン見直しに消極的だったが、月末さすがに請求書を見て「えーっ!」と慌て、「何とかならないかしら?」と相談された。

そこでショップへ出かけて料金プランを相談してみたが、「もうこの回線ではかけ放題プランの契約に変更できません」とけんもほろろな対応だった。そもそもガラケー自体選択肢が減っていて、携帯電話各社も古いガラケー向けのサービスを相次いで終了している。世の中の主流はスマートフォンになっていることを今更ながら気付かされた。

そうは言ってもガラケーはまだ根強いユーザーがいるし、調べたら格安simの会社でも条件付きではあるが、2社だけガラケー向けのかけ放題プランがあった。料金も3,000円前後になる。

早速ガラケーの料金プランのシミュレーションをエクセルで作成し、母に見せたら

・話すのは特定の人とだけど、その人達とは10分以上話し込んでしまうから10分以内のプランだと条件に合わない

・わざわざ新しいガラケー端末を買うのは抵抗を感じる

・新しい端末を買うくらいならお父さんの形見のスマホを活用したい

という返事だった。

「スマートフォンは電話としては使わないって言ってなかったっけ?」と尋ねると

「Oさん(母の高校時代からの友人)に『がんばってスマホ覚えた方がいいよ』って言われたの」とのこと。

…やっぱり娘に言われるよりも友達に言われた方が受け入れやすいらしい。

スマートフォン向けならかけ放題サービスはぐっと選択肢が増えるし、7月にかけ放題の格安プランが出たばかりだ。幸い父が使っていたのはドコモのスマホだったからそのまま利用できる。まさに渡りに船だった。

N子さん「電話番号は変えないでね」

私「それは手続きできるから大丈夫」

N子さん「絶対自分でやるのは無理だわー。なんか年寄りは相手にされていないみたい。変えた以上は電話できないと困るから操作の仕方教えてね」

と観念したようだった。

「格安simの利用者がなかなか増えないのは、自分で料金プランを調べたり、MNPを含む各種手続きをやるのが面倒というのがあるのかもね」と思いながら手続きを進め、無事母はガラケー卒業となった。

物理ボタンがないということ

早速スマートフォンでの電話のかけ方と受け方の練習をしてみた。あらかじめ電話帳に登録してある番号へかけることはすぐにマスターしたが、難しいのが電話帳にない番号へ電話をかけることだった

少し前にも「歯の具合が悪いから歯医者の予約したいけど、電話をかけられない」と電話がかかってきた。どうやら電話をかけるためのダイヤルパッドを開けられなかった模様。

「えっ?そんなことが!?」と思ったが、理由を考えてみると物理的なボタンがないのでどこを押せばいいのか分からなかったようだ。確かに液晶パネルではボタンを好きな場所に設定できるが、そのボタンが何を意味するかをアイコンから想像する必要がある。スマホのボタンは物理ボタンよりははるかに恣意的なのだ。

もっとも同様なことは他の人でもあるようで、つい先日もご近所の高齢者世帯の方から「スマホのこと教えてほしい」と電話がかかってきて、スマホアプリのアップデートを手伝ったことがある。その際も「もう、スマホってボタンがないからどこを押したらいいか分からないでしょ。難しくて困っちゃうのよ」と言われたことがあった。

よく考えればガラケーは電話でスマートフォンはコンピュータだ。スマホの場合電話はたくさんある機能のうちの1つにしか過ぎず、1つの機器で複数の役割をこなす。ガラケーのようにすぐに電話をかけられる、というのとはまた違う。

何かするにもアプリを起動させないとだし、必要に応じてアプリを管理する必要がある。コンピュータというのは何にでもなれるが、そのままではただの機械にしか過ぎない。自分好みカスタマイズしたい人には好都合なこの特性が、この曖昧さに慣れていない人には難しいのかもしれない。

最近はビデオ通話などのため若い世代の人が高齢の親にスマホを用意することも増えているようだが、このコロナ禍では子や孫の世帯が遠距離の場合操作のフォローや機器のメンテナンスをどうするかは考えていく必要があるだろう。

情報アクセスへの格差

N子さんは我が家の近所へ越してきてからネット世界に触れる機会が圧倒的に増えた。私の手を借りながらブログを書き始め、心理学の文献を読むオンライン講座にも「せっかくだから受講しようかな」とおっかなびっくりではあるが参加している。

そんな彼女にとってネットはワンダーランドであり、かつどこか恐ろしい世界でもあるらしいが、ネットの世界などを知ろうと努力しており、最近も「この番組面白かった!」と落合陽一氏とオードリー・タン氏との対談番組の感想を述べていた。

N子さん曰く「でも、今の世の中はますます学ばないといけないことが多いし、ネットの有無による情報格差がどんどん大きくなっているわよね。だってこのリアルな世界の他にも仮想の空間のことも考えないとでしょ?インフラ整備にお金がかかるし、アクセスするための設定とかけっこうハードル高いわよ」とのことだった。

確かに今ではネットにアクセスできることが前提になり、私がネットを始めた25年ほど前(そもそもメールアドレスを持っている人が稀有だった)とは比べ物にならないほど回線も高速化している。

ネットは確実に生活に入り込み、生活費を考える時ネット関係費(携帯電話料金、ネット回線費、PCやスマートフォンなどの端末代)は無視できない額だ。恐らくネットの普及に伴って電気代も上昇しているだろう。

もはやエンゲル係数ならぬネット係数の方が貧富の状況を如実に反映しているのかもしれない。コロナ禍の現在、まさに”no internet, no life”という状況が私達夫婦のような従来からの在宅ワーカーだけではなく、一般にも広まりつつある。

情報保障という考え方

視覚障害や聴覚障害の分野では情報保障という考え方が根付いており、さらに海外ではprint disability(視覚障害やディスレクシアといった印刷物への情報にアクセスしづらい障害を指すが、広義では知的障害なども含む)という観点からも議論されている。

これからは同様な視点をインターネット接続が困難な人たちへ向ける必要があるだろう。こんなに情報格差が生まれていたことはなんとなく勘付いてはいたが、正直私自身N子さんの超近距離介護が始まるまでどこか他人事だった面がある。

元々N子さんは読書家だったこともあり、彼女の読みたい本を探す第六感はピカイチだ。図書館や書店ではその能力を遺憾なく発揮して読みたい本をゲットして読み漁る。

しかし、「ネットだと勝手が違うのよね」とのことで、どうやら彼女のアナログな検索能力とネットならではのデジタル特性は相性が悪いようだ。一方でprint disability当事者にとっては読みたい本がなかなか電子書籍化されないという悩みもある。

個人的には物理本でも電子書籍でも活字が読めればOKなハイブリッド人間なのだが、今後両者の垣根を低くしていくのも大切なことだと改めて思う。

ちなみに夫はそんな垣根を取り去りたいとこんなプロジェクトに取り組んでいる。

アナログとデジタルは決して対立する話ではないし、両者を隔てている壁がなくなればもっと面白い世界になると私は思っている。一方でそのためには解決すべき課題(法整備など)もある。

誰もが情報へアクセスできる権利をどう保証するか?というのは長い歴史がある広くて深い課題だと感じた出来事だった。

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