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3年目のペン習字

仕事半分趣味半分

総務や経理をサポートしていた夫の仕事関係のことが一段落し、その後の片付けなどが落ち着いてから開始したペン習字だったが、気がつけばこの9月で3年目に突入した。

始めた当初は継続できるか危惧していたが、幸いSNSにはペン習字をしている人のアカウントが多数あり、中にはペン字に関する役立つ情報サイトを運営している人もいる。

そのような人たちの投稿をチェックしつつ、自分も定期的に書いたものを投稿していると意外とフィードバックをもらえるので、それがモチベーションにも繋がり、お陰で毎月の課題をこなしながら細々と続けている。

最初の半年は基礎を学べる講座で学び、昨年4月からはパイロットの通信講座を受講している(ボールペンとあるが、新・実用ボールペン講座も添削していた先生に相談して途中からデスクペンで書いたものを添削してもらった)。

始めたきっかけはスマートフォンやタブレット端末が本格的に普及するのと比例するかのように発達相談の際

「うちの子、文字は読めるのですが、(文字を)全然書こうとしないんです」

「文字を教えようと思うのですが、何から教えたらいいのか分からなくて…」

「文字を書かせると線の交差がよく分からないみたいです」

という保護者からの訴えが増えてきたことだった。

普段何気なく書いている文字だが、改めて問われてみると

・文字を書くとはどういうことか?

・文字を書くのに必要な事項は何か?

・文字の上手い下手の違いは何か?

という課題を考える必要が出てきた。

そこでペン習字など一般に普及されているスキルを学んでみてそれらのカリキュラムは何を狙っているのか?きれいな文字を書くためのどんなメソッドがあるのか?ということを自分で経験してみようと思い立った。

また、当時はボールペンを使って手書きでカルテを書いていたため(現在はPCで入力する方式へ変更)、記録を書き終える頃には右手の甲が痛くなり、時折手首が軽い腱鞘炎を起こしていた。

ボールペンの場合筆記時ボールが回転することでインクが紙面に乗っていく。そのため玉乗り状になっているペン先が常に不安定なので文字を書くためにある程度ペン先に力を入れる必要がある。

(こちらはボールペンのペン先の拡大画像。ペン先にボールが入っているのが分かる)

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さらに私の場合指先の筋力が弱く、体全体の関節も不安定な体質のため文字を書くときもコントロールさせようと一般の人よりも力を入れて筆記具を操作していたようだった。特に最近流行りの低粘度インクのボールペンは滑りがいいから書いているとペン先のコントロールがしづらく、さらに体への負担が大きくなっていた。

そこで当時発売間もなかったパイロットのジュニア向け万年筆kakunoを試してみたら、「おお!万年筆ならこんなに力を入れずに書けるのか!」と感動し、そこから万年筆の沼にハマってしまう羽目になった。

万年筆を使ってみると分かるが、ボールペンの時よりペン先が紙を捉える感覚もつかみやすく、書いた文字も心なしきれいに見えた。そこでせっかくだから万年筆できれいな文字を書くようになりたい!と欲が出たこともあり、ペン習字を習う機会を作ろうとチャンスを虎視眈々を狙っていた。

今年4月からは行書に入り、行書ならではの書体と連綿に苦戦している。活字のフォントに慣れた身としてはペン習字の昔ながらの書体に戸惑っている面もあるが、展覧会へ行って浮世絵などのくずし字が何となく分かってきたので、『天空の城ラピュタ』のムスカ大佐の如く「読める…読めるぞ!」と内心ほくそ笑んでいる。

書字にまつわるエトセトラ

今では本の原稿でも原稿用紙に万年筆で書く人はほとんどいない(私も原稿はテキストエディタで入力する)。

もはや仕事では文字は書くものではなくてキーボードで入力するものであり、筆記具で文字を書くのはメモを取る程度という人も珍しくない(いや、そのメモすらスマホに入力という人もいるだろう)。

一方で美文字ということばが流行ったように、美しい文字への憧れは確実に存在し、文字の上手い下手が性格まで反映するかのようなジャッジをされることまである(個人的には文字を書くのはスキルだから、性格とは連動しないと思っているが)。

「自分だってペン習字やっているでしょ?」と突っ込まれてしまうかもしれないが、なぜ人は文字を書くという行為にそんなに思い入れをしてしまうのか?と思ってしまう。

こちらはまさにそんなテーマの一冊。

よく考えれば昔は文字の読み書きができるのは特権階級の人だったし、書道も芸術の域に達すれば多くの人たちから高い評価を受ける。

カメラやコピー機がない時代はもとより印刷機がない時代なら本の複製を作るなら写本という手段が一番現実的だったから、今以上にきれいな文字を書くことに需要があったのだろう。そのため今でもその習慣を引きずっているのかもしれない。

再認と再生の違い

改めて今の時代ペン習字を習う意味を考えてみると、それは認識したものやイメージしたものをできるだけ正確に再現する力を育てることだろう。

ペン習字を始めてよく分かったのは手本通りにはすぐには書けないということだった。ほんの数ミリ、ちょっとした角度で文字の形は変化する。添削指導される先生の中には定規や分度器で観察して学んだ体験談を機関紙に綴っていた方もいた。

また、想像以上に文字は動画的な要素を含んでいることを知ったのもペン習字を習った大きな効果だ。二次元と三次元の要素が入り混じっている分、その約束事を理解しづらいとディスレクシアといった読み書きの問題も出てきてしまう。文字は書きながら習得する暗黙知も案外多いのだ(このあたりの話題はそのうちまた記事を書いてみたいと思う)。

読字は文字を自分の記憶から音や意味を思い出す作業(再認)で、書字は音を文字に置き換え、記憶の中にある文字の形を再生する作業だ。再認と再生では圧倒的に再生の方が難易度が高い。だから読めるけど書けない、書けるけど時間がかかるという事態が起こる。

大人の視点ではつい読めているから書けるはずと思いがちだが、再認と再生には大きなギャップがあることをもっと意識したいところだ。

もしかしたら認識したものを正確に再現する力を育てることが目的なら、書字以外でもいいかもしれないし、書字以外の動作である程度練習してから書字を練習する方が早いかもしれない(実際書字が苦手なケースの場合縄跳びなど視覚からの情報を取り入れながら行う協調運動も得意ではないことが多い)。

子どものうちから再認と再生のギャップを埋めるための下準備を丁寧に行い、この世で思ったことを実現させるには、想像以上にエネルギーが必要だが、手順を追って学べば習得できることを体験してもらうことが重要だ。

「何を大層に」と言われるかもしれないが、書字を例にとっても時代につれて道具が変化し、今では先にも述べたように書字の動作自体減っている。漠然と書字を教えているだけでは子どもたちも必要性を認識できず、ただ課題をこなして終わり、となってしまうだろう。

学びの本質を見直す

こんなに変化が激しい社会では今まで当たり前だったこともどんどん意味合いが変わる。表面的なものばかり見ていると習得すべきことがどんどん増加し、振り回されて焦燥感も増してしまう。

書字の場合ならかつては必需品だった筆で文字を書くスキルは半ば趣味や上級者向けのものになってきた(賞状や香典返しなどもだんだん印刷に代わりつつある)が、文字でのコミュニケーションは増えているから文章表現のスキルへの需要は高い。

ただし、今後テクノロジーの進化で動画投稿などががもっと手軽にできるようになる、さらに進化してテレパシーのようなことが可能になったら言語自体不要になるかもしれない。言語はあくまでも媒体なのだから、不要になったり他のものに取って代わることは十分あり得る。

一方で無駄に見えることでも実はとても重要な要素が含まれている場合もある。「この行為の背後にあるものは何か?」「この動作で何が重要なのか?」を考えていくことも今まで以上に大切な学びへとつながるだろう。




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