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『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』(河出書房新社)レビュー

Twitterで見かけて興味を持ったのでリアル書店数店で探したが、見つからなかったためネット書店で購入して読み始めてみた。

正直感想としてはかねてより疑問に感じていたことが話題になっていて「ですよねー!」と共感しきりだったが、経済がジェンダーにこんなにも大きな影響を与えていることを改めて認識できたのは大きな収穫だった。

ただ、ジェンダーを見直せば簡単に解決とはいかない。私がとても納得したのは本書に繰り返し批判的に述べられている

女性を加えてかき混ぜる

という表現だ。つまり、ただ単に女性が賃金労働に参入するだけでは問題は解決しないばかりか、ますます経済社会の思惑に搾取されてしまう。

(この辺りの話題は上野千鶴子さんも指摘している)

コロナで家庭に保育と教育と仕事がやってきた

コロナ禍で女性たちが悲鳴を上げたのは記憶に新しいが、その理由は突然家庭に保育と教育と仕事が乱入してきたからだ。

一斉休校や感染などで子どもが保育園・幼稚園や学校へ行けなくなれば誰が面倒を見るのか?そして、テレワークになったらどこで仕事をするのか?その間家事や食事などをどうするのか?

多くの家庭で緊急事態だから、となし崩し的に負担を担ったのは女性(母親)たちだった

以前の記事にも近代以降家庭から切り離してきたケアへの疑問を呈したが、まさにこの本でも同じことが指摘されている。

本書によると生涯独身だったアダム・スミスの身の回りの世話を担ったのは母親であり、彼のいとこ(女性)も手伝っていたと記されている。しかし、彼の業績を下支えしたはずの母といとこはほとんど語られることなく歴史の片隅に追いやられてしまった。

女性が担うことが多いケアワークや接客業・サービス業はテレワークとも相性が悪い。だからコロナ禍ではますます暮らししわ寄せが来ている状況は想像に難くない

発達相談でもどことなく疲労が蓄積されている雰囲気の保護者にどこまで対応を伝えたらいいか正直悩むことがある。

そうは言っても子どもたちはどんどん育つからできるだけのことをなるべく保護者たちが取り組みやすい形で伝えていくことを心がけている。

経済でケアの問題は解決できるのか?

コロナ禍でエッセンシャル・ワーカー、ケアワーカーと言われた医療・福祉・介護の仕事の待遇に驚いた人が少なからずいたことに従事者として驚いたが、それは教育までもが投資の対象となっている現代社会では、社会福祉が不利益な部門だという認識が経済側にあるからだろう。

実際相談現場でも「これさえやれば効果は出るんですよね?」と尋ねられることは珍しくない。確かに以前から聞かれてはいたが、どちらかと言えば自分のモチベーションを高めるためという感じだった。しかし、昨今では査定するかのような雰囲気で質問される。

確かに今までより手間がかかるならできるだけ合理的・効率的に、という気持ちも分かるが、どうも私たちは経済のカラクリに大切なものを掠め取られていると最近改めて感じている。

そもそも合理的・効率的という指標を家庭生活にまで持ち込んでしまうことにもっと疑問を感じなければいけないはずだ。

そうなってしまう背景には長時間労働や貧弱な社会保障の問題があることに加え、ネットやマスコミなどで発信される消費行動を煽るすてきな暮らしへの憧れも隠れているのかもしれない。

次々と提示される問題へ対処していくうちに働いても吸い上げられるようにどんどん収入は消え、気づけば身も心もすり減っている。

心のどこかで違和感を覚えつつもこの流れに乗り遅れたら脱落してしまうかも、という不安も理解できる。

しかし、本来何のために働いているのか?を立ち止まって考えみれば、職業上の充実と同時に家族や親しい人たちと幸せに暮らすことも大切な目的であるはずだ。賃金と引き換えにその時間が溶けていくのを見過ごす訳にはいかない。

そして、家庭という人が暮らす中で土台となるはずの場所に潜む問題についてさらに切り込んでいる。

愛や善意に頼るのにそれらを貶める理由

一人暮らしであってもある程度他者と繋がれないと暮らせないのは自明のことだと思う。特に生まれた時と死の間際はどんなに強がっても他者の愛や善意に頼らざるをえない。

「いや、お金があれば大丈夫だよ」と思った人もいるかもしれないが、家族のサポートに該当するサービスを他者から受けようと事前に準備したらそれこそ数百万単位のお金がかかる。

いざとなれば公共サービスが使えるのでは?と言っても公務員(非正規も含む)として雇われている場合かなり安い賃金で働き、善意や使命感で踏ん張っているケースも珍しくないから回り回って見れば誰かの愛や善意に頼っているのだ。

つまり、それだけ私たちは誰かの無償の愛や善意に依存している。そしてそれを担うのは多くの場合女性だし、それによって働く機会を逸したり、非正規雇用に甘んじているのもまた女性だ。

それなのに家事労働やケアワークは雇用において不当に安価だとされる。さらに言えば自分の家族の場合たとえ別世帯であっても多くの場合無償労働が当然とされ、家族の事態に放置できないと責任感や義務感で必死に育児や介護にあたった人が相続などで泣きを見るというケースは後を絶たない

きちんとやってみれば家事やケアワークは高度なスキルが必要だし、タイムマネージメントやマルチタスクを要求される。また、外からは想像もつかないほど忍耐力や手間を要する。

当たり前のように日々を暮らせているからそんなに大したことないだろう、と高を括られている雰囲気を何となく察していたが、経済学にはもともと女性や女性が担ってきた家事やケアワークが存在しないことになっているという前提(男性たちの中では経済学ができる前からそうなのかもしれないが)が大きな歪みを生み出し、そして資本主義社会が私達を飲み込み続けている。

なぜこんなに家事やケアワークを貶めるのかと今までずっと謎に思っていたが本書を読んでみてちょっと謎が解けた気がしている。

まずは暮らしと経済の意味を見つめ直す

そうは言ってもすぐに世の中は変化しない。世の中を変えようにも日々の暮らしで精一杯という人も多い。それに今の世の中は経済で回っているのだ。

それでもお金や時間の遣い方を見直してみると「あれ?」と無意識な自分に気づくことがあるだろう。色々疑問が出てきたらそこから見つめ直し、他人の目を気にせずできることから地道に取り組めばいい。

今まで見過ごされてきた問題がようやく日の目を見てきたのも経済がもたらした恩恵なのだ。遅々として進まないように感じても着実に変わってきたし、今後ケアなどについてもその意味や価値を理解できるような社会になってほしいと願っている。

最後に

ネットで検索したら著者のインタビュー記事を見つけたので、リンクを貼ります。


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