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ことばの発達が気になる子どもの相談室 明石書店

まえがきにも書いたが、この本は以前共著の原稿を書いた同じ明石書店の本『仕事がしたい! 発達障害がある人の就労相談』という本の担当編集者から「村上さん、ことばの相談本を書いてみませんか?」と声をかけてもらったのがきっかけで出た。

書こうと決めた理由

ことばの相談については既にいくつも名著が出ているし、今ではネットにもこの手の情報が溢れている。正直私でいいのだろうか?という迷いもあった。

それでも書いてみようと思った理由はやはり自分の経験を通した複眼的な視点を活かせた内容を書けるのでは?ということだった。自分ではあまり意識していないのだが、療育経験のある当事者・支援者・家族という3つ立場を経験している人は療育の世界でも少数派だ。

講演や研修の場で話をすると、参加者からは自分以外の立場からの視点の話に「思いもよらなかった」というコメントが意外と多い。専門家だって意外と見えない(分からない)ことはあるのだから、よりよい関わり方の手掛かりになれば、と思って引き受けた。

親の思惑と子どものそれがすれ違うのは日常茶飯事だ。まだ言語化が難しく、成長途上の子ども側の視点での言い分というのもある。自分自身「あの時はうまく説明できなかったけど…」という幼少期の苦い記憶も残っている。

当事者ー家族ー支援者の関係は時に利益相反になるから、実際のところは第三者が思うほど平和でも協調路線でもない。家族の中の問題が一筋縄では行かないのもこの辺りが絡んでいる(この辺りの話は家族療法のことを書く際触れたいと思う)。

もちろん普段の相談業務中は自分が当事者だというは一切触れていない(公表しているから当然スタッフたちは知っているし、たまに親御さんから「あ!テレビに出ていた方ですよね!」と驚かれることはあるが)。

関係性の中で生じる悩みや困り事について理由と解決策をセットで提示し、相談現場で専門家へ話をする際にも情報を事前に整理する手助けになれば、と考えながら書かせてもらった。

そんなこちらの意図を的確に捉えてくださったレビューがこちら(そらパパさん、ありがとうございます!)。

また、このレビューにも述べられているように、最近は巡回支援などの制度が少しずつ整備されてきたものの、残念ながら発達相談の窓口は予約してから実際に専門家に会えるまで時間がかかり、長い場合半年くらい予約待ちということもあり得る(そもそも小児ができる言語聴覚士や臨床心理士・公認心理師自体需要はあっても人が少ないという事情も)。

子どもの半年はかなり変化する。専門家に会う機会が少ないなら、その間少しでも家族が積極的な気持ちで育児に関われるようなヒントを提供したいとも思った。

どんなに世界が変わっても変わらないこと

そして、できれば自分とは違う人格を持つ子どもたちと関わる際頭から否定するのではなく、「この子には世界がどんなふうに見えているのだろう?」「自分と異なる世界を持つ人と楽しむには何をしたらいいか?」という興味関心を持ってもらいたいという希望もあった。

それと言うのも発達障害ということばの知名度が上がるにつれて「これは障害なのですか?それともただの怠けや甘えなのですか?」「発達障害なら療育しないとですよね?」と聞かれることが増えたからだ。

一方で「障害ならありのままを受け止めたい」「そこまで無理をさせたくない」と言われることもあり、障害や療育への捉え方が私が考えるものとは全然違うと感じることも増えている。

正直当初は少々面食らったが、丁寧に話の意図を探っていくといずれも親の不安や不満が投影されていると感じた

今の世の中での育児は私が子どもだった頃よりもずっと親に求めることが多い。そして自分の親世代からも色々言われる。親だから当たり前にできる訳でもない事を外から言われるストレスやプレッシャーもある。実際相談場面でも自責の念に駆られてい親の姿は数多く見てきた。発達相談に出向く状況=親失格の烙印を押されたような気分になるのかもしれない。

今の世界では努力が報われることが前提で物事が進んでいるし、学業や仕事の世界では成果主義で評価されるからこんなに努力しているにも関わらず報われない日々は、今までの価値観を次々と覆される出来事ばかりだろう。人によっては生まれて初めて思い通りにならないのが育児なのかもしれない。

そう考えれば正解が見えないからこそできるだけ子どもたちがより幸せになれるよう対応したい、より合理的な方法を見つけたい、というのは自然な流れなのかもしれない。専門家だって未来のことは正確には分からないから、直観頼みで行動するしかない!と判断する場合もあるだろう。

確かに私にも未来は分からないが、はっきり言えるのは

・今後は誰しも想像もつかない程多様な価値観を持つ人やテクノロジーと付き合う必要がある

・人間が肉体を持って生きる以上どんな世界であっても生活はついて回る

ということだ。

実際現場でも「そう来たか!」という振る舞いをする子どもたちに出会う日々で、新たな社会やテクノロジーによって人間の言動が確実に変わっているのを目の当たりにしている。いや、もしかしたらテクノロジーによってより顕著に人間の多様性が可視化されたのかもしれない。

そうは言っても人間である以上人間ならではの特性をどう育てるか、そしてその土台である心身の発達や生活スキルを知ってることはある意味基準となる軸を持って生きることになる。本を書く上でもこの辺りのことはかなり意識した。

異なる世界とどう付き合うか

起床したら身支度を整えて食事を摂り、暮らしに必要な様々な用事を済ませ、排泄や衛生面に気を配り、1日の最後に就寝するという一連の暮らしを滞りなく進めるには多くの人の想像以上に複雑で繊細な機能が働いている。

特にここ数年はコロナ禍や親の介護を通しても人の暮らしはちょっとしたことで質が低下してしまうと実感している。

詳細は拙著やnoteの記事で述べているので参照いただければ幸いだが、最近また改めて考えを整理したいことも増えてきた。

特に発達障害の場合我が身を振り返ってみても定型発達仕様な世の中とどう折り合いをつけるかは大きな課題だ。

特に現代社会は言語を始めとする記号操作の能力が評価されるだけに、言語の基本とは?を考える参考になれば幸いです。







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