あとがき

 なにか特定の出来事についてお話ししようと思うと、どこから話したらよいのかわからなくなります。発語とは、頭のなかのスクリーンにうつしだされた像を、言語などのツールを用いて拾っていく行為、そして同時に像を分断する行為でもあります。わたしは、できればイメージを分断させたくないのです。言語化には常にそのような困難さが伴いますが、いま頭にうかぶ光景をあえて言葉として拾うならば、ひらけた交差点、建物と建物の間から差し込む、未だ白い光の混ざる夕日、その眩さに目を伏せるわたしのTシャツの背中、埃っぽい土の香り、駆け足気味に自転車を押すひとびと、また、高揚はするが浮かれはしない故郷の名前……等をあげることができます。このように、光景は言語化によって断片と化します。
 言語化によって失われてしまうものもありますが、言語化を試みることによって、到達、達成できるものもあります。たとえば、伝えようとする意思とは、言語化される前の段階において、その態度などによって相手になにかを投げかける主体的な意識です。この、伝えようとする意思がなければ、両者は対話において交わることができません。「言葉」というかたちに依存していないイメージというものは、読み取ろうとしない限り、しばらく浮遊したのち、別のイメージへとみるみるうちに変形してゆきます。たまたま手の届く距離にあるときに自らが拾っていくか、相手の厚意によって拾ってもらわなくてはなりません。 言葉になるまえのイメージと、まがりくねったかたちとしてあらわれた言葉の、ひとつひとつを手に取り、「これとこれとこれは、あなた/わたしの落としものではない?」と訊ねられなければならないのです。
 みずからにとっての論文執筆とは、眼の前で揺らぐイメージに、諦めることなく繰りかえし触れゆくことでした。言葉になるまえのイメージに、懸命に耳を傾けていると、次第に言葉の粒が浮かんできます。そのひそやかな交信は、打ち慣れたパソコンのキーボードを介して実行されました。たびたび、虚空のほうへ彷徨ってしまい、迷子になりましたが、その都度、表面のぼやけた地図をなんとか拾いに戻りました。言葉がみずからのなかで暴発するときは、とりあえず、気のすむまで眠り、バランスよく食べ、外の空気を吸い、適宜にからだを動かす試みによって、ぐらつきから逃れようとしました。当たり前のことのように聴こえるかもしれないのですが、わたしは、わたしの「からだ」を介することによって、文字を書いていたのです。
 「言葉は標本のようである」という喩えがあります。「言葉とは、飛んでいない蝶」であるというのです。それをきいて、透明の虫ピンで留められた蝶が別の蝶と友達になり、会話をはじめる光景を思い浮かべました。標本化とは、言葉の断片と断片を繋いでゆくことです。文字をしたためるということは、イメージとイメージの織りなす、まったく想像のできない関係性に導かれることだといえます。そう思うと、あたかも内緒の展覧会に呼ばれているような気がして、なんとも胸の内がざわめくのです。わたしは、論文の執筆を通して、いつのまにか「生のイメージに呼ばれるがままに応答すること」そのものをいとおしく思えるようになっていました。できる限り、これからもその要求に応えてみたいと思っています。

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