終章 傷と気配

 特定の作品に惹きつけられ、高揚を覚え、唐突な所有欲に駆られることがある。それに対し、惹きつけられているのは確かだが、どうしても相容れない感触が拭えず、直視できないこともある。前者の場合、ポストカードや複製原画をはじめとしたアートグッズを購入することで、一時的に昂ぶった欲求が満たされる。
 どちらも惹きつけられているにも関わらず、ポストカードを買いたくなるときと、そうではないときの違いが生じる。これに関しては、ロラン=バルトによるプンクトゥムとストゥディウムで理解できると考えていた。ストゥディウム、展覧会の目玉だったり、知名度が認められる作品のポストカードは、必ずミュージアムショップに象徴的に置かれている。しかし、プンクトゥムに関してはどうだろう。一部、惹きつけられる箇所があり、ポストカードが売られているならば持って帰りたいとする。そうであっても、実際にポストカードの大きさに縮められ、写真作品としてレンズを介したその姿は、本物の作品をみたときの印象とは全く異なるという事態が時に生じるのである。多くの場合は、サイズが大きく縮められるため、物理的な迫力がぼやけることは確かである。小さくなっても、惹きつけられるとはどういうことだろう。
 われわれは知り合いの顔写真を見たとき、名前を思い出せなくとも、既視感を覚えることができる。仲が良い友人の場合、友人の好きなものを街で見かけるだけで本人を思い出すことができる。
 ミュージアムショップで作品のポストカードを買うのは、恋人の写真を保存し、いつでも見られる状態にしておくような欲求と似ている。実際に見ることがなくても安堵を得られる効果をもたらすのである。ロケットペンダントも大切なひとの写真を見るための道具ではあるが、主たる役割は持ち主に安心をもたらすことである。代理物(フェティッシュ)とはなり得ないが、だからこそ、不在(表象)が愛おしさを増幅させる。恋とは、表象のようなものかもしれない。永遠を約束された表象は、自身の妄想によって常に更新されていく。求めているのは本人なるものではなく、本人なのであって、その欲求こそがリアリティを伴った恋人の気配を創造するのである。気配とは「感じる」ものではなく、自らが気配を創り出しているという能動的側面になるべく気づかないようにして、無自覚のうちに「感じてしまう」ものなのだろう。
 一方でカタストロフとは、自らが気配を予兆できぬものである。だからこそ惹かれ、言語化しえぬ渦の深さに酔い、自らが自らであることの存在理由をからだに刻み込む傷なのである。愛は、その渦中においてめまぐるしく変形を重ね、いつしか名付け得ないものになっていく。
 みえるもの、みえないもの、語ることができるもの、そして、語り得ないもの……。芸術と共にある限り、その傷と気配を、愛さずにはいられないのである。

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