第四章 写真実験

・浄化しえないもの ・痛みの知覚

・浄化しえないもの

 自身の鑑賞体験が、カタストロフ〈裂け目〉の理解のはじめの一歩となることを期待し、マグナムフォト【註19】に掲載された写真のうち、心に引っかかるもの100枚以上の写真を選択し、漠然とした分別を行った。(マグナムフォトでは報道写真を含む多くの図像が厳選されて載っており、様々な国のそれぞれに異なった生活環境を持つ写真家たちが所属している。)写真群は大きく4つに分類することができた。しかし、18枚の写真だけは、ほかの4種類の写真群と比べて異質な空気感を孕んでいたため、分類不能として弾くことにした。しかし、その除外された18枚の写真が、自らにとってだいじな要素に思えて仕方がないのである。
 写真だけでなく、自身が興味を惹かれる絵画作品についての考察も行った。写真と絵画の両方を検討する必要があると感じたからである。ロラン=バルトは『明るい部屋』にて、写真考察以外にも版画や絵や彫像についても触れている。写真が「カタルシスをしめ出してしまう」メディアであるのに対して、版画や絵や彫像は「崇拝」の対象になりうるものとした。これはどういうことか。バルトは写真に「暴力性」を認めるが、同時に「多くの人が砂糖は心地よいと言う」ような官能性とも両立することを指摘している。その「暴力性」というのは、直接的な暴力をレンズに取り込むという意味ではない。撮影のたびに画面いっぱいが覆われてしまうような「耐えがたい充実性」を孕むという意味においての暴力性である。なるほど、必ずしも遂行されないにせよ、版画や絵や彫像に敢えて余白を持たせることは可能である。しかし、バルトが指摘するのは画面の密度の問題ではない。バルトにとって写真とは、「耐えがたさ」をはぐらかすために、時にフェティッシュに替えられることも起こりうるメディアであった。その堕落が、砂糖のような狂おしい甘さでもあった。一方、「崇拝」とは、その対象において自身が傾倒していることの告白と引き換えに救済を得るものである。そうであっても、崇拝とは脅威の裏返しでもあるため、無自覚なレベルで、版画や絵や彫像に畏れを抱いていたのではないかと邪推する。
 わたしがみつめた作品は、荒井良二の『いつだか忘れたけど、あれたのしかったね』(2017年)である。(図版2省略)手帳カバーの絵柄として制作された作品であるため、絵画はやむを得ず縦に分断される。右側(表)には、鮮やかなピンク色のねこのようないきものが草むらから浮かび上がるように描かれており、表紙としての描写の強さに目を奪われる。だが、じっとみつめていると、散らばったモチーフ同士が織りなす関係性に呑まれるように惹かれていく。この作品に関するわたしの最初のメモを、ここに採録する。


『リアリティ』「自分が自分でないような不気味な感覚があるときは、(何か特定のキャラクターを表したものではない)抽象的な図像を見て、安堵する。一言に抽象とは呼ぶものの、個人的な具体性を伴うため、どこまで抽象と呼んでいいのかは分からない。じっと見つめていると、過去の数多くの記憶の輪郭がゆっくりと浮かび上がる。ひとつひとつの記憶について、細部まで思い出すこともあれば、デジャブをなんとなく感じる程度にとどめておくこともある。ときにその作業は、1日以上かかる。あれもあった、これもあった、と各々の記憶を取り出し、絵画の画面上の色を抽出して、自由な塗り絵のように手心を加えていく。そうして色を塗り替えられた記憶も、結局はまた忘却されてしまう。過去の記憶を美しい色に塗り変え、二度と離さないのではなく、むしろすぐ手放すために、絵画の色彩を借りて、確かな存在として一時的に認知することを試みている。抽象表現は、〈確かさ〉を得る手助けをしてくれる。確かなものとは、絶対に動かない石そのものではなく、どちらかといえば石と地面の接地面のような存在であり、二者を静かに強く結びつける、目に見えない力のことなのだろうか。」(2019年9月)


 このメモを参考にし、自身が惹きつけられる(自己崩壊が生じる)写真群と、自身がスルーしがちな写真群(ルネサンス絵画の天使の図像等)とを比べてみたところ、「物質的な記憶・絵の質感(マチエール)を想起させるものであるか、否か」という点において差異があることがわかってきた。
 自らにとって、ルネサンス絵画の天使たちは、反復可能な記号である。これは、自身がカトリックの中学・高等学校に6年間在学し、油画の天使たちを、景色の一部として毎日何時間も漠然と眺めていたことも無関係ではないだろう。多くの教室に飾られていた天使たちは、もはや自らが天使であることを忘れているように微笑んでいるのだった。旧約聖書に「あなたはいかなる像も造ってはならない[…]あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」【註20】という記述がある。これは偶像崇拝が否定されているということを示す。崇拝対象としての表象ではなく、むしろイメージをする助けとして十字架のペンダントや油画のマリアや天使が存在するのである。油画の天使たちはあくまでも偶像ではなく、神を思い浮かべるための補助的な存在ということになる。自らの存在に必然性があるわけではないことを油画の天使たちは理解しており、眼差しを向けるわれわれに対しての無関心さを油画のマリア以上に演出し続けるのである。以上のような経緯があり、画家による天使の表象の差異に関しては、気に留めたことがない。
 漠然と分別したマグナムフォトの写真を眺めながら、条件(「物質的な記憶・絵の質感(マチエール)を想起させるものであるか、否か」)を当てはめることができるかどうか、試行錯誤した。以下、写真の特徴を羅列したものである。(図版3省略)
 左上…一秒後の自分であるという恐れ、状況の不穏、彼岸、安らか、鎮魂、祈り、物質的な死
 左下…先祖代々の記憶、生理的嫌悪でもあるが、人間の経験・危険・失敗の繰り返しによる成果
 右上…怖くてセクシー、目を瞑るが視線をそらしている、色が鮮やかなもの、生き物に食べさせるための鮮やかな色、没入への恐怖、悪い夢、死と生の円環
 右下…個人的な何か、決して手の届かない感じ、時間のわからない感じ、現在や未来として捉えられない、時間軸の宙にういている
 以上の特徴をもとに、上下左右を分断する軸の理解に努めた。横軸の左が「ストゥディウム」、右が「プンクトゥム」、縦軸の上が「此岸、物質(マチエール)的」、下が「彼岸、ファンタジー」である。
 そして、分類できなかった写真(図版4省略)であるが、「繁殖、規則、侵食、孤独、深淵、崩壊、なにもしない、圧迫、残骸、廃墟、さびしさ」……と特徴を列挙したのだが、どうにも共通点が見つからない。もしかしたら、自身の夢と現実の狭間の記憶が、蘇りかけているのだろうかと考察したが、よくわからなかった。
 デジャブとは何であろうか。既視感とも訳されるこの言葉は、初めて体験するはずのことであるにも関わらず、過去を過去であるとも断言できない「かつて」の出来事を想起させることを表す。これら18枚の写真を見つめていると、とあるストーリーがそれぞれ浮かび上がる。それらは、自身のおぼろげな記憶に紐づけされた、愛しい物語である。ひとつは、高速道路を初めて車で走ったときに遠くに見えた砂埃をあらわしているようであり、ひとつは、幼い頃に腕いっぱいに雑草をむしりとったときの達成感をあらわしているようであり、ひとつは、校庭の裏で蛙をつかまえた傍に埋められていたマンホールの奇怪な模様のようでもある。はっきりとした言葉で説明できても、実際に体験したことであるかどうか、自分自身も断言できないのだ。記憶とは、思い出す過程で新しく創り替えられていくものでもある。そのため、ただでさえ、誰であっても正確に語ることはできない。
 わたしたちのからだは、自分が意識的に知覚しうる事象以上に、多くのことを知っている。これは、自分ひとりだけではない、いきもの代々の記憶の集積である。といっても、生物学的な学習遺伝という言葉では補えない。意識化可能な〈類〉の記憶だけではないのだ。
 理由もなく惹かれ、若干の恐怖を感じる18枚の写真たちは、これからも、わたしの背後をこっそりついてまわり続け、いつかその〈裂け目〉としての本性を思い出させるに違いない。はっきりとした答えは今は出せないが、なぜか、そんな気がするのである。
【註19】マグナムフォト (https://www.magnumphotos.co.jp/)
【20】出エジプト記20:4、5(聖書 新共同訳、日本聖書協会、1996年)


・痛みの知覚

 わたしは時に、痛み・恐れなどを身体と切り離して考えることで楽になろうとすることがある。これは、カンタン・メイヤスーの「世界の知覚」の方法論で説明できる。自分が生きている場所としての世界を自分が「いかに」経験しているかを、深く問い詰めることが起点となる。メイヤスーの考えでは、自分が意識していようとなかろうと、世界において痛みが発生している。〇〇そのものにおいて生じる痛みを身体的に意識できなくとも、痛み自体は発生しているのだ。わたしが「この痛み」を知覚できようができまいが、痛み自体は存在するということである。つまり、世界において存在するらしい、自らでは見ることができない場所にある物置を想起すれば、「この痛み」を隠蔽できるのではないかと考えた。「この痛み」は、わたしのからだに生じているのではなく、世界において生じているのだ、と物置の扉に触れてみる。そのとき、物置にぎゅうぎゅうにおしこめられるのは、痛みそのものでは決してなく、「痛みを忘れたいのに忘れられない苦しみ」なのである。「不在」する振りのできない、下手な「不在」によって、ますます痛みの存在は膨らんでいくのだ。

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