第三章 アート受容の可傷性とカタストロフ表象

・「傷ついた」という声

・抗議電話 ーあいちトリエンナーレ『表現の不自由展・その後』をめぐって

・〈傷〉と振る舞い・文脈に抗するもの ー『un/real engine ーー慰霊のエンジニアリング』より

・リテラシーが失わせるもの ー愛する(to love)の次元・ 渦中、そして表象(ヴェール)

・ひとと、場所 ー被災の分断


・「傷ついた」という声
 アートをみて「傷ついた」と言えることは、一体なにを意味するのだろうか。表現の自由という言葉は決して、作家による無遠慮な権力の振りかざしではないはずだ。小さな声の言葉、大きな声の言葉、すべてを(拾えなくとも)拾おうとする(平等であるという意味で)寛容なものとしてアートは働く。しかし、アートの外では、傷つける意図がなくても、責任不足という点で罪が問われることがある。この点がややこしく、〈自由〉とは、結局のところよくわからないもの、という認識が持たれることがある。
  作家や作品に対して「傷ついた」と言えてしまう因子は、作家そのものに起因するのではなく、鑑賞者ひとりひとりの〈裂け目〉によるものである。無意識下にあったはずのものに触れ、苦しみ、原因を探そうとする。このとき、作品や作家に責任を押し付けるのは簡単であるが、炎症そのものの打ち消しとはならず、本当の意味での癒し(解決・理解)とはなり得ない。傷ついた自らのからだを受け止め、痛みが徐々におさまるまで、ゆっくりと内省するよりほかにはないのである。トラウマを忘れるための特効薬というものは存在するが、よい記憶までも奪ってしまう。愛すべき思い出(わたし)を抱きしめるために、傷ついた部分をやさしく看護していく。些細なことであるが、大きな一歩となるのが、傷を受けたという事実を知ることである。自分が傷ついていることにも気付くまで、永遠に解決することのない苛立ちを募らせてしまうことも起こりうる。自らの記憶のトラウマに原因がある場合、その傷の治癒は外の者/物には手に負えない。飲酒や煙草など、いっときの快楽によって麻痺させることはできても、である。
 また、作家は自身の作品の責任をとるべきである、と主張するひとびとが少なからずアートシーンには存在する。作家がもし作家ひとりだけで作品を作ったのだとすれば、それは大きな間違いである。住む部屋、画材、食べているもの、水、眠るときの毛布、挨拶を交わすひとびと、空気、両親、祖父母、それ以前の祖先……と、ひとびとはつねに〈ひとり〉では存在しえない。これは過言ではない。作家も同様である。われわれは、現在だけでなく過去、いずれは必ず訪れる死をも含めた、地球上に存在するあらゆる事象と共にある。作家は作品の責任をとるべきという発言は、かえって自らの存在意義をむずかしく問い直すことになるのである。


・抗議電話 ーあいちトリエンナーレ 『表現の不自由展・その後』をめぐって
 2019年9月26日から30日にかけて、あいちトリエンナーレ2019の運営を担当する愛知県文化芸術課の公式サイトにて、『表現の不自由展・その後』に対する抗議の電話、電凸の音声データ7件【註12】が公開された。電話の向こうの人々は、程度に差はあれど、語調を荒げたり職員の話を遮ることで怒りを表明していた。データのサンプル数が少ないため、断言することは難しいのだが、7件中6件が一方通行的なコミュニケーションに陥り、対話が実現できていない様子から、一時的にも言葉の掃き溜めのような場所と化した電話窓口の光景が想像される。以下は、そのまま言葉を取り上げたものである。
・なぜ日本ではなく韓国の問題を取り上げるのか。 ・日本人として気分が悪い。 ・表現の自由・言論の自由はある。でも、今やることではない。 ・歴史的に嘘だろう。なぜ今やるのか。 ・(国民から)金を取るわけでしょう。 ・福岡とか北海道ならいいけど、名古屋でするな。 ・(抗議が届いても)力づくでも(展示を)やりたいというのは、どういうことか。 ・日本人が日本人をヘイトするのか。 ・売春婦が平和の象徴なのか。 ・うちの父親はレイプ犯か。 ・芸術というふりをしたら、何をしてもいいんだ。 ・日本をおとしめるものを税金で展示するな。 ・(慰安婦の史実に対して)あれは捏造だ。
 これらの抗議に対し、とっさに、作品擁護や抗議への反論を試みようとしている自分に気付く。ひとえに作家の側面を包含する自分を守ろうとして、冷静さを欠いてしまいそうになる。「作家や作品を擁護する」という目的において、作家以外の人物が制作意図を語ると、多かれ少なかれ語弊が生じる。作者本人ではないという理由に加え、(自らを投影させて)作家や作品を守ろうとするバイアスがかかり、解釈の幅を大いに狭めてしまうからである。アートに、とある観点からの「正確さ」を求めると、もはや個の解釈ではなくなる。「歴史に忠実であることが大事」と訴える人々は、公平な視座を持っているようで、実は自分の信じたいものに固執しているようにも思える。そもそも、学問における歴史についても、研究者による解釈の一側面にすぎない。
 以上のように、『表現の不自由展・その後』にまつわる「電凸問題」によって、アートの可傷性を訴える人々の存在が再び露わとなった。ショックを受けて、「自らの価値観の転覆により〈傷ついて〉しまった」と思索を巡らせることは、簡単なことではない。なぜなら、傷つく要因を自己の内部に見いださなければならないからである。
 生理現象をはじめとした身体の自然な動きであったり、口に出して発言することであったり、電車を乗り換える行動であったり、できることを行為することに関しては、一見、個人の意識に委ねられるように思える。だが、できることは常に他者との駆け引きとの中で、ある地点に線引きされたものである。自由とは、できないことを自身に教えてくれる不自由を意識したときに頭角する。これまで、様々な場で繰り返し、芸術活動のあるべき理想として用いられてきた「表現の自由」という言葉は、各々によって解釈が違い、〈自由〉と感じられる状態は、個人的な感覚に依存するものである。そして、各々の胸のうちから慎重に言語化し、形として取り上げることは、非常に困難である。できることの無数の積み重ねは、パッチワークのように一枚の布として視認される。自由とはどうしても、目を凝らさないと実態ひとつひとつを捉えることが難しい。
  不自由をテーマにした展示は、普段我々が当たり前にできていることへの無関心・順応(慢心)を箱の外から指摘する。単に自由、不自由の言葉の相関性とは、反転を表しているのではない。
【註12】抗議の音声データは、2019年9月26日に公開され、2020年1月現在は削除されている。愛知県文化芸術課公式ウェブサイト:https://www.pref.aichi.jp/soshiki/bunka/(2020年1月9日閲覧)


・〈傷〉と振る舞い
 広島の平和学習における自身の体験が、カタストロフへの関心を抱くきっかけになったと感じている。7歳のときに学校の教育プログラムで初めて平和記念資料館に訪れ、再現展示の部屋に入ったとたんに、歩けなくなってしまうほどのショックを受けた。それほど衝撃的であったにも関わらず、直後の図画工作の授業で、記憶を辿って自分が展示室で見たものを立体的に作ってしまい、担任教員に怒られたのだった。なぜか褒められると思っていたので驚いたが、叱りを受けた途端に自身の制作物への罪悪感が急激に生じ、何を作ったのかわからないように上から塗りつぶして捨てに行ったことを記憶している。また、高校時代に沖縄研修旅行で、ひめゆり学徒隊を経験した方の証言を聞いたあと、わたしは無遠慮にも自身の友人に「言葉にしがたいが、泣けてよかった」と話し、その感想は人としてどうなのかと叱られたことがある。今振り返っても、自身の言動を思い出すたびに胸が苦しくなるが、年を重ねるごとに〈傷〉に対して距離を置くようになったことが窺える。
 〈傷〉への距離の取り方は個人の試行錯誤によるものである。何をすれば楽になれる、という決定打を出すことは本来ならばできないはずである。なかったこととして気を逸らし、忘却することは簡単そうだが、何かをきっかけとして再び触れてしまったときに、自身の裂け目として何度でも表出する。裂け目を閉じる(埋める)方法としては、アートセラピーやカウンセリング等、ヒーリング療法の助けを借りなければならない。カタストロフの種を土の奥深くに埋め、再び発芽しないように閉じ込める。もしくは、思い出して定着しないように、薬を飲む。その場合、よいこともわるいことも忘れてしまう。記憶というものは、人間の都合で焦点を絞り、手を加えることはできない。カタストロフの種は自身の内臓で消化されないままである。
 裂け目を裂け目であると認め、内省することは難しい。裂け目が開くとは、自らが拠り所にしていたこれまでの経験則や観念を覆すものであるからである。アイデンティティが崩れることは、人間の恐怖である。
 本来、人間とは不定形な存在であることを、多くのひとは承認できていない。レヴィ=ストロースが「わたしはかつて一度もアイデンティティを感じたことがない」「わたしは、何かと何かが出会う交差点にすぎない」【註13】と述べたように、人間が自ら知覚している「自分」たる部分とは、透明なのである。われわれは、愛や痛みを感受するセンサーを持つが、感受そのものが「わたし」なのである。
 そうであっても、自分が他者を傷つけてしまっている「らしい」ことを知るのは、ショックなことである。当時のわたしは、他者を困らせる自分がなぜ生まれてきたのか、なぜ広島なのか、なぜ今なのか、何ができるのか、何を思えばよいのか、そのような問いについて日々考えていた。感情移入の訓練をすれば他者を傷つけずに済むと考えたが、その都度、他者のわからなさに苛まれた。しかし、自分が他者を傷つけてしまっていることを知らされることによる傷は、むしろ無意識のうちに自らの心の拠り所となっていたのではないかと思う。わたしは、もっとも大事な、自分自身への理解を後回しにしてしまったのである。かつて、自分にとって美術館とは癒しの場所だったのだが、それは自身の〈裂け目〉を見て見ぬ振りをしていたからだろう。結局のところ、他者の心とは、写し絵のように自己解釈することはできるが、本当の意味で理解することは難しい。あるいは不可能である。
 記憶に残ってしまうような他者の強い言葉ですら、当人を等身大に表しているわけではない。言語とは、社会によって慣習化された記号でもあるが、もうひとつの側面として、実在しないものでもある。それは、現前していない状態である。言語とは、自分を愛したいという気持ちによって、能動的に表象(Vorstellung)【註14】のスクリーンに息吹き、現前する。ときに満たされない思いによって、言葉は率直さを失ったまま感情表現として、用いられてしまうこともある。
【註13】渡辺公三『レヴィ=ストロース 構造』(講談社、二○○三年)を参照。
【註14】イマヌエル・カントの用いる「表象」(Vorstellung)と、ギンズブルグの「表象」(ヴェール)とでは意味合いが異なるため、本稿ではカッコ内で表記分けをしている。


・文脈に抗するものー『un/real engineーー慰霊のエンジニアリング』より
 TOKYO2021美術展『un/real engineーー慰霊のエンジニアリング』(会期:2019年9月14日〜10月20日)は、建物の改装に向けて取り壊される予定である戸田建設本社ビルにて開催された。「この国の祝祭はいつも、災害に先行され[…]災害が繰り返すからこそ、祝祭もまた繰り返される」という。(配布資料より)会場はふたつの展示場所によって構成され、それぞれ「災害の国」と「祝福の国」と名付けられていた。
 「災害の国」は、総体としては社会現象としての災害(カタストロフ)であった。キュレーターである黒瀬陽平が、トークイベント「災害の表象をめぐって−ゆれるイメージ、炎える言葉」(2019年10月6日)にて、「自分は炎上を恐れている」と語っていた経緯もあり、その認識は増幅された。SNSにおける炎上とは、個々のコミュニティの土台を揺るがす現象であり、時に社会現象にも外延しうる可能性を孕むため、団体の代表者が炎上を気にすること自体は自然に思える。しかし、彼は自ら「炎上状態」を望んでいるように見えた。なぜなら、自分のアカウントに宛てられたメッセージ、主に本質からずれた言い掛かりを積極的に晒していたからである。本当に恐れているのであれば、「あなたがたは間違っている」と怒ることもできないはずである。ここに、カタストロフへの明白な恐れと期待の両義性を見出した。
 黒瀬陽平は、展示にともなうトークイベントで「展示前に観客に語る猶予を与えないようにする必要がある」と語った。彼が展示に特殊な加工を施すべきであると判断したのは、会田誠の『Monument for Nothing Ⅳ』(2012年)である。作品は、東日本大震災直後の混乱したTwitterのつぶやきを集め、コラージュしたものである。作家監修のもと、細部が見られないように、作品全体を半透明のビニールシートで覆った。作品名も『Monument for Nothing Ⅳ(2019 ver.)』と変更された。
 半透明のビニールに覆われ、直接対峙できない状態となったアートは、もやの向こうに何かしらの色や形がうかがえたとしても、それが作品の存在を証明する理由にならない。キュレーターが展示の炎上を避けるために加えた作為は、アートや鑑賞者のためではなく自らが「炎上を避けている」という事実が前面に押し出される上演行為となる。これは炎上しうる可能性を悲劇とみたてた、アートの援用である。閉ざされたキュレーションは、各々に「みる」ことを強いるエゴを感じさせる。そこには、恣意的な意図のみが現前する。


・リテラシーが失わせるもの ー愛する(to love)の次元
 「美術史の知識やリテラシーがないひとびとはアートを本当の意味で理解することができない」と述べる評論家がいる。ここで指すリテラシーとは、鑑賞に関する事前知識や歴史の文脈理解のことである。作品を鑑賞する際にだいじなのは、ロラン=バルトが『明るい部屋』で述べた概念、プンクトゥム(punctum)に気づくことである。プンクトゥムとは、ストゥディウム(studium)の対抗概念であり、「私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然」のことである。一方、ストゥディウムとは、「ある種の一般的な思い入れ」のことである。バルトは、「人物像に、表情に、身振りに、背景に、行為に共感する」合理的な感動はストゥディウム的であり、熱意の低い、お行儀のよい魅力しか呼び起こさないものだとした。これは、学校教育をはじめとした教養文化の成果によってひきだされる関心らしい関心である。われわれが多くの時間を過ごす世界の存在にすぎないのだ。それらは、慣習的であり、表象(ヴェール)的であり、記号的である。美術史の知識がないとアートを理解できないという言説は、学問領域において培われてきたリテラシーにおいて、評価できる作品こそに価値があるという誤謬に繋がる。バルトによれば、ストゥディウムは「好き(to like)」の次元にとどまりはするが、「愛する(to love)」の次元には属さないのである。
 対して、プンクトゥムとは、そのようなストゥディウムを破壊しに訪れるものだと定義する。プンクトゥムとはラテン語で、傷や刺し傷、鋭くとがった道具によってつけられた標識(しるし)を意味する。それは、バルトが「冒険(=不意にやってくるもの)」、「ある種の細部は私を《突き刺す》ことができるらしい」と述べたように、向こうから突然からだを貫いてくるものである。ストゥディウムとは反対に、非記号的な、理由のわからない関心を引き起こすものである。彼が惹きつけられるのは、必ずしも著名な作家の作品ではない。そして、写真を大きく占める特徴的な部分に必ずしも惹かれるのではない。彼がプンクトゥムを見出すのは、むしろ写真の中心部から外れた指の包帯や歯並びの悪い歯、道路の轍などの、おそらく多くのひとが気にも留めない小さな部分なのである。
 バルトが「私が名指すことのできるものは、事実上、私を突き刺すことができないのだ」というように、自らが選ぶことができない偶発的な要素を持つため、何に突き刺されるかわからない。ましてや、なぜ突き刺されるのか理由を考えることはできない。美術史の知識の習得を前提とする鑑賞リテラシーとは、記号的な関心を呼び起こしはするが、 自らの「愛する(to love)」次元に引き上げられる作品の突発的なSign=標識/兆候を見失わせるのである。
 リテラシーの問題としては、小林秀雄がひとびとの映画に対する反応を語ったエピソード【註15】が興味深い。1925年、映画をまだ見慣れない小笠原諸島のひとびとが、役者の演技などよりも、画面に映し出された煙草の煙に興奮したという話である。
「人々は、何やら合点のいかぬ様子であったが、一人の男が画面に現れ、煙草に火をつけて、煙を吹き出すと、俄に場内が、ざわめき出し、笑声となり、拍手となった。唖然としていたのは、恐らく私一人だったであろう。煙が映し出されたという事に、見物一同驚嘆しているのだ、という事に気が附くのに、私にはしばらくの時間が要ったのである。」
 彼らは、映像を見慣れていなかったがゆえに、煙草の煙に驚いた。そして、歓喜に奮い立ったのだった。現代では、家庭用ビデオカメラやスマートフォンが普及し、カメラレンズを通して映し出された世界は、当たり前のものとなっている。特別視するきっかけがなく、無意識のうちに漫然とした意識で眺めるようになっていたのである。しかし本来、対象がなんであっても並列的に物質を写し出せるカメラは、絵や彫刻にはみられない特殊な性質を持つ。写真や映像を見慣れたことによって身についた一定のリテラシーが、みえていたかもしれないものを消失させるのである。それは、慣習的な関心においては気付くことのできない豊かさである。鑑賞に関する事前知識や歴史の文脈理解に依拠した芸術鑑賞はストゥディウムに留まることであり、作品に臨場することなく表面をさらってしまうことにもなりかねないのである。つまり、芸術鑑賞にリテラシーが必要なのであれば、それは「臨場」するためのリテラシーなのである。
【註15】小林秀雄『Xへの手紙・私小説論』(新潮社、1962年)を参照。 


・渦中、そして表象(ヴェール)
「波見えた。家、倒れてる。あーあ。えっ家流されてる。いやいや家。どれ?やべえ。うわー、うおー。おいおいおい、なにあれ。あれ。おー。うわー。でっかい。やべえ。やばい、あっちいく車ある。やばい、いくなって。あー、家だよね。あ、火出た。あの車にげてー。あー。波きてんのにー。うわうわうわうわ。あー、トラックいってもうた。あー。あらあらあら、うわー、あれありえん。みんなじゃん。うわー。信じられん。あーあ。あーあ。うわー。みんなつぶれた。あー。えー、すげー。うそ……。最悪これ、うわー、こんななると思わなかった……あー。」
 これは、2011年3月11日の宮城県南三陸町において、迫ってくる津波から避難した方が高台から録画した映像資料の音声【註16】を書き起こしたものである。撮影者のからだの震えを引き受けながらそこに映されていたのは、津波の横顔ではなく、正面顔なのであった。言葉だけ取り出すと、全貌では何が起こっているかわからない。録画可能な状況そのものが、自分自身が無事だと懸命に信じこまざるを得なかった心理状態を表している。
 精神科医である中井久夫は、医師として阪神淡路大震災に関与した際の記憶を回顧しながら、テレビ画面を通して東日本大震災をみつめた手記を綴った。(『災害がほんとうに襲った時 阪神淡路大震災五十日間の記録』 2011年) 彼は災害を分析するにあたって、内部から見た外部と、外部から見た内部の認識の乖離を指摘した。「遠すぎる眺めと、近すぎる眺めとの乖離であろう」という推測は的を射るが、認識の乖離というものは、その物理的な距離感以上に、個人間にも切実に生じるものである。物事への認識は、誰であっても同じものはなく、カテゴライズすることは不可能で、常に乖離し合っている。ただ、彼は内と外の上下関係について述べたわけではなく、内部にいるときは外部が自己中心的に見え、外部にいるときは内部が自己中心的に見える、という二律背反を指摘したのだった。ただし、カタストロフの認識において、場所性を特別視/シンボライズして理解することは非常に困難である。
 東日本大震災における死者をめぐったルポルタージュとしては、石井光太の『遺体—震災、津波の果てに』(新潮社、2011年)が挙げられる。Amazonのカスタマーレビューを拝見すると、「あの震災で何があったのか、よくわかる様、書かれています。(2019年9月)」、「手に取るようにわかりました。(2012年12月)」等、現地報告の記述によって状況を理解することができた、という感想が複数見られる。また、「これまでニュース映像は数え切れないほど見てきたが、分かりやすく衝撃的な映像だけを繰り返し[…]被災者のきもちを実感としてなかなか掴むことが出来なかった。[…]この本を読んで初めて[…]被災者の本当の辛さがわかった気がします。 (2012年2月)」という感想は、自らが共感できるメディアを求めてカタストロフを理解しようと試みる心理の表れとして興味深い。
 共感性というものは、ときにひとの心に寄り添うための言動へとつながるが、わからないものは寄り添えないと判断してしまう危険性をはらんでいる。ルポルタージュを読んで「わかった」と言えるのは、自分なりに解釈ができたと言っているのと同じで、震災の記憶の共有が前提とされた発言である。しかし、表象されたものとは、事象そのものではなく写し絵でしかない。わかったつもりの錯覚を引き起こすのも、表象(ヴェール)である。わかったふりというのは言葉によって名指すことができるということ、すなわちコード化であり、究極には愛することからの逃避である。理解不能性を引き受けることこそが、愛である。
【註16】https://www.youtube.com/watch?v=rdGO3mgeotA&app=desktop 冒頭3分間を引用(全体:5分29秒)


・ひとと、場所 ー被災の分断
 広島もまた、宮城県南三陸町や神戸の街と同じくシンボライズされる対象である。ヒロシマ・ナガサキ・フクシマという表記はその最たるものである。カタカナ表記によって、土地名としての広島を指しているのではないという意志を示す。そこに示されているのは、原爆が落とされた地としての広島なのである。象徴と化すことによって、文脈が狭められる。広島は原爆が落とされた場所でもあるが、それ以前はほかの土地と同じようにひとびとの生活が存在したのである。アニメーション作品の『この世界の片隅に』(2016年)では、広島市江波から呉に嫁いできた十八歳の主人公、すずの身の回りの日常が描かれる。そこには、戦争中であるにも関わらず、現代のわれわれと同じように日々悩み、恋をし、台所に立ち、新しい家族との人間関係を受け入れながら生きていく、「ふつう」のひとの姿をみることができる。原爆が落とされるよりはるか昔から広島は広島なのであって、それは時に廣島と表記された時期や、安芸国と呼ばれていた時期、安芸国ですらなかった時代から、そして、未来も同様に「この場所」が相変わらず存在し続けることを予感させるものである。
 特定の文脈において、表記を変えることの利便性以上に、カタカナ表記のヒロシマは、抽象化を余儀無くされてしまう。それは、個々の広島の物語を見失わせるのだ。
 出来事の抽象化はカタカナ表記だけでなく、ミュージアムの展示構造や配布資料の中にもうかがえる。長崎原爆資料館の常設展示は、A〜D四つの展示室によって構成されている。「B 原爆による被害」のエリアでは、長崎原爆投下までの経過、焼け野原と化した長崎の街、浦上天主堂の惨状をみせながら、爆弾による被害を熱線、爆風、放射線による被害の三種類に分けて解説されている。爆弾はいかにして開発されたのか、どのように破壊したのか、身の回りのものがどのように変化したのか……。そこには、個人の物語は感じられない。また、被爆した方の訴えを綴ったパネルは、高いところに展示されており、身長の差によるハンディキャップを感じさせるものである。絵画に関してはモニターで閲覧できるように工夫がされているが、実際に訪れたときパネルを操作している鑑賞者の姿は見られなかった。そして、長崎原爆資料館で配布されている『長崎原爆資料館学習ハンドブック』(2019年9月版)に関しても、投下地点として選ばれた長崎という場所性や核分裂という化学反応について触れたあと、広島との爆弾の製造過程における差異、そして街の被害がどれだけ広かったか、地図を用いて解説される。それぞれの個の物語は、館内で配布される学習教材においても後回しにされ、どこか他人行儀なのである。過去の出来事として爆弾の威力を語ることだけがだいじなのではく、ひとりひとりの尊い毎日を大きく揺るがすものとしての側面を語ることが不可欠である。このようなハンドブックの説明書きは、大勢での共有を前提として作成される。表象されたものは伝わりやすいという側面を持つが、本当の実際を表現できているのか。表象はときに、表象されたものが全てであるという錯覚を起こさせる。しかしながら、記号や表象とは、常に古びていくものだ。
 旅行ナビサイトであるTrip Advisorに掲載されている長崎原爆資料館の口コミのなかには「原爆の悲惨さがよくわかる」(2019年11月)、「事実をリアルに表現していると思います」(2019年10月)、「原爆の悲劇をよく伝えている」(2019年9月)といった感想が見られる。自身がみたものに関して、「〜であるのだとわかる」、「理解できる」と判断してしまうことは心の防衛策でもある。それは大団円なのではなく、自分の身を重ねるレベルに到達しないことでもある。
 わたしは、原爆資料館を出た後に友人に落ち込みを伝えたとき、このように言われたことがあった。「それは、本当に原爆を体験した人に失礼」であると。「当事者」に失礼であるという考えというのは、あなたの落ち込みは実際に体験した人に比べれば別に落ち込むほどのものではない、と「当事者」を限定する考えでもある。これは、「当事者」というものに線引きをし、自分は「当事者」ではないからわからない、という思考に陥る。「当事者」の線引きは、体験者のなかに格差をつけることでもあるのである。
 毎年、原爆投下日や終戦記念日が近づくと、事実を風化させないという意図で特別番組や催し事が企画される。広島市の学校では平和教育の一環として、原爆を体験した方の話を聞く機会が設けられる。証言を聞き、資料館に赴き、こどもたちは各々の描き方で、経験したことがないはずの「あの日」を心のなかに形成していく。何度も夢に現れた架空の八月六日は、戦後の広島市民であるわたしの中でも終わっておらず、継続した日であり続けている。そのため、あの日を忘れないという喚起そのものに違和感がある。未だ終わっていない出来事への認識の齟齬が生じるのである。
 平和を紡ぐため、と2019年に東京都国立市役所が企画した『ふつうの日になったのか原爆の日』展【註17】の展覧会タイトルも、8月6日が暦の中で埋もれていることの認識を、問い直すものである。しかし、それは我々のからだやこころが当然のように現代を生きていることを前提とする。
 広島平和記念資料館は、2019年4月に展示リニューアルを行い、再現展示の撤去を実行した。かねてより、再現人形に関しては、8月6日の光景を代表するものではないとして是非が問われていた。しかし、それは、あらわれているものがすべてをあらわしている、という考えに基づくものである。
 証言とは、個別の体験、そして共通の体験として語られる。これは、東日本大震災にも同じことが言える。共通体験は大枠を捉えるが、事例の代表化とはなり得ない。個別体験は、人生の一部としてのカタストロフを語るものであるが、全てを追うことは困難である。しかし、そうであっても、経験しなければ結局のところ真実はわからないという結論に身を委ねてはならない。われわれは想像することができる。証言を通して、それが現代に起こりうることを想像し、もとより想像不可能な全体を断片から思い描く。ユベルマンが「アウシュヴィッツからもぎとられた四枚の写真」を通して指摘したようにである。そのように、比べられるものではないにも関わらず、被災の程度によって上下関係が生まれてしまうこともある。それは、当事者/非当事者という分け方を前提とするものである。
【註17】2012年より、東京都国立市は毎年8月の『原爆の日』展に向けて、原爆の日を忘れないための「一行のコトバ」を市民に募集している。展覧会の会場は、国立市役所のロビーや公民館、福祉会館、駅前の施設など。(また、国立市は2007年より、広島県立基町高等学校普通科創造表現コースの生徒たちと被爆体験証言者の方の共同制作による「原爆の絵」を展示している。)
【註18】同胞の肢体処理の役目を課され、自らも死を免れえなかったアウシュヴィッツの特殊部隊のメンバーが、宛名も不確かな場所へと送り届けた、四枚のフィルムの切れ端のこと。そのフィルムに映し出された一九四四年の夏の四つの瞬間に関して、ユベルマンは、「この恐るべきカオスにおいてわれわれが[視覚的に]手にしているもののほとんどすべて」であると述べた。不完全な断片は、不足にとどまり続けるがゆえに、「それでもなお」映し出された現実を訴え続ける切実なイメージである。

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