第二章 カタストロフ表象と鑑賞

・変身とアイデンティティ

・わからないものへの理解 ー映画『アナと雪の女王』より

・鑑賞における逃避

・目眩(イリンクス)とカタストロフ

・変身とアイデンティティ

 「あなたにとって美術館はどんな場所か」という問いに対し、「癒しの場所である」と答える人が多いという。癒しとはどういうことか。
 自分にとっては、美術館とは「もうひとり、もうふたりめの自分に出会ってしまう場所」である。と、ここで、ドッペルゲンガーを思い起こす。ドッペルゲンガーの場合、自分の分身を目撃してしまうと死に至るとされている。芸術鑑賞においては「これまでの自分ではいられなくなる」という意味での死を表す。この現象は、「わたし」の死と更新/再生、すなわち既存のアイデンティティからの一時的解放である。自らの〈裂け目〉の生じる作品に出会ったとき、とてもうるさく、とても静かな衝撃が身体を打ち、一瞬のうちに貫かれる。平衡感覚を失い、普段通りに立っていられなくなる。しばらく作品のなかをさまようと、再び手足は体温を取り戻し、徐々に自分が暮らす世界へと戻っていく。貫かれている間は、自分が自分を見失った迷子のような状態である。自分が正常でいられない、それどころか自分の姿がどこにも見当たらない、あの世行きの空間。美術館は、その空間へ繋ぐ穴が存在する場所である。正確には、作品が無言で孕み続ける〈裂け目〉の前段階を、保有できる場所である。
 美術館が癒しの空間であるということは、自らのアイデンティティを上塗りするように、日常において存在不可能な自分に変身するということでもある。
 日本のこどもたちは、テレビのコンテンツを通じて、変身という概念に出会う。特に、魔法少女ものや特撮は人気コンテンツであるが、こどもだけでなくおとなも夢中になっている。変身とは、自分のからだに、もうひとりの理想化された自分が降臨した状態である。そこで、もうひとりの自分に生まれ変わったような錯覚に陥るが、中身は変身前のままである。
 こどもたちは、キャラクターそのものに「なる」遊びを覚えるが、いつのまにか純粋な喜びを感じられなくなってゆく。それは、ほかでもない「演じている」自分に気づいてしまうからである。演じる必要がある限り、キャラクターそのものにはなれない。憧れていたキャラクターが、自分とは違う個体(他者)であるということを受け入れた瞬間に、魔法が解けてしまう。
 おとなが変身願望を抱く場合はどうだろうか。これは、魔法がかかっている状態の自分と現実の自分との落差を意識しながらも、つまり演技していることを理解しながらも、変身を望むということである。変身という行為には、元の自分に「戻ってしまう」ことも含まれる。演技を中断するたびに効果が切れるので、やめるわけにはいかない。ごく普通のキャラクターが、その凡庸さからは予想できないような手柄を達成することを期待されるように、現実の自分からの飛躍を求めている。
 美術館に癒しを求めるとは、「なりたい」自分によってたどたどしくエスコートされながら、理想の自分に陶酔することである。そのとき、他者(作品)はぼんやりとしか視えていない。「美術館にいて、作品を〈視て〉いる」という演技が優先されるからである。中毒性も付随するため、美術館にあししげく通うことにもなる。
 また、「あなたにとって美術館はどんな場所か」という問いに対し、「非日常の場所である」と答える人も多いという。非日常とはどういうことか。
 美術館が非日常の場所であるということは、日常の延長線上にないこと、個々の日常にとって「圧倒的な無意味」であることである。日本の歴史学者である網野善彦は、『無縁・公界・楽』(一九九六年)において芸能を育む場所としてのアジール的空間について明らかにしたが、この民俗的心理と無関係ではないだろう。生活空間にとっては無意味であるからこそ魅力に感じるのである。
 鑑賞においては、社会的なアイデンティティを一時的にオフにすることがだいじである。カタストロフに身を重ねられたとき、「仮」の今、「仮」の社会的アイデンティティの承認に成功するのである。ここにおいて、カタストロフから逃避してしまうと、またはじめから、社会的なアイデンティティをオフにする試みからやり直さなければならなくなる。そうすると、美術館へ向かう目的が「変身願望」を満たすためとなってしまう。社会的なアイデンティティとは、自らの肩書きや仕事など、人間としての自分を成り立たせる要素のことを指す。社会における自分のありようは、いきものとしては「仮」の姿である、ということを認めることがだいじなのである。この「仮」というものに絡め取られると、自死に至ってしまうこともある。会社がつらくて自殺する場合などに見られる。
 カタストロフ体験によって、社会的アイデンティティが仮のものであると気づけると、それはもはや演技ではない。自分自身に「なる」ためのイニシエーションに成功しているということである。


・わからないものへの理解 ー映画『アナと雪の女王』より

 ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ製作による3Dコンピュータアニメーション映画『アナと雪の女王(原題:Frozen)』 (2013年)の登場人物、王と妃のもとに生まれたエルサは、触れたものを氷にする能力を持つ。普段は手袋を装着することで能力の暴発を抑えているが、自身の戴冠式の日、不本意にも民衆に能力がばれてしまう。エルサは雪の降る山奥へと逃げ、氷の能力を使って、そこに自分のための城を建てるのだった。
 自身でもコントロール不可能となる状態がカタストロフであり、暴発する氷の魔法を国中に振りまきながら逃げ惑うエルサはまさにカタストロフの渦中である。それに対する、エルサが今まで自ら忌避するものとして隠してきた能力を活かし、精魂が込められた大きな城をいきいきと創造する場面は、「レット・イット・ゴー」というヒット曲とともに有名である。制作によって、彼女自身が自らに開かれていく様子がうかがえる。カタストロフに巻き込まれながらも、与えられたからだを徐々に解放し、氷細工の制作を通して、自分という存在を抱きしめるよろこびを知る。
 物語の後半部では、エルサは紆余曲折を経て、ひとやものを凍らせてしまう能力を制御する方法を知る。元の場所に戻ったあと、自身の魔法で凍らせた城の広場の地面で民衆たちと共に真夏のスケートを楽しむのである。
 順風満帆とも思えるこの物語の展開においてひとつ引っかかるのは、エルサの能力が、もし当時の誰の役にも立たなかったら、彼女はどうなってしまっていたのだろう、という疑問である。たしかに、エルサの個性は、ひとびとに喜ばれることによって彼女の自己肯定にも繋がる。生きがいにもなりうる。また、誰かの役に立ちたいという欲求は、誰しもが持つものである。だが、それは社会によって不要・邪魔だとされる個性だった場合、彼女はひとりで孤独を抱えたままであった。エルサが周囲のひとだけなく、国のひとびとにも歓迎されるという終わり方には、バッドエンドが並行して浮かび上がってくるのだ。
 社会において規定される「個性」とは、その時代においての有用性が要求されることでもある。その有用性とは一定の基準からみたものであり、矯正や治療の対象とされることもある。有用性が問われるものとして、芸術とはその最たるものである。「芸術が何の役に立つのかわからない」とは、よく聞く言葉だが、理解できないものの存在を受け入れられない心理による。われわれは、触れてこなかった文化/他者に触れるとき、これまでに構築してきた自分たちの秩序がおびやかされる恐怖と対面することとなる。わからないことを当たり前のこととして受け入れられないと、安易な賞賛を行ってしまう。例えば、それは美術館が、時に「心を豊かにする場所」などと言われてしまうようにである。よくわからない、誰の役に立つかもわからないものこそ、愛するべきである。


・鑑賞における逃避
 芸術鑑賞のさいに、「理解を深めるため」として作家による説明が求められることがある。キャプションの解説文が充実しているように見えても、そこに表れているのは誰かの個人的な解釈に過ぎない。もし、作家による説明をきいて何か「理解」できたとするのであれば、それは作品そのものに関してではない。作家が制作中のカタストロフを抜け出した後だとしても、そのときの感情はすでに外部から覗き込むことでしか説明し得ないのだし、言葉とは常に不完全なものであるからだ。言語とは脳のスクリーンに息吹くイメージを分断する、非連続的な働きを持っている。作家本人の言葉をもったとしても、どうしても必ず説明しきれない部分が生じるのである。むしろ、説明不可能な部分がほとんどだろう。作家の意図というものは、その一部が意識化されたものであり、動機も遂行も語り得ないのである。
 キャプションを読むことによって、本当の意味での作品への理解が深まることはない。逆に、自分以外の観察者によって提供された情報量が増え、混線することとなる。カタストロフを避けるためには、自らの頭の中を情報で満たす必要が生じるのである。


・目眩(イリンクス)とカタストロフ
 ジェットコースターに乗っているとき、ロープウェイに乗っているとき、水平型エスカレータ(動く歩道)を不自然な取りで歩くとき、われわれは自らが「動いている」ことを自覚する。生体とは動態である。生体はひとときも止まらない。体の動きも心の動きも常に絶えず揺れているのに、普段は無意識のなかに埋もれている。この「動いている」という状態は、ひとが自覚できないレベルであるとしても、イリンクス【註11】である。それは、自分の意思で「動いている」のとは異なる動力で「動いている」ときに感じられる。ひとりで道を歩いているときはわざわざ自分が「動いている」のだと実感させられることはない。しかし、水平型エスカレータを歩いているときは、自らの意思によって前に進むのとは別の外的な力を感じざるを得ず、そのことによって自らが動態であることを自覚するようなものである。
 イリンクスとは、自らが制御できないからだの動きによって、さらに制御できない動きが入れ子のように発生することである。自らが「外」の動きに耐えられなくなってしまうとき、イリンクスが発生している。しかし、それは本当は「外」の動きではなく、自分が動いているのである。自分が動くことによって目眩を感じたい欲求は、くるくると回転して遊ぶ幼い子にも見られる。
 ロジェ=カイヨワは、イリンクスとは知覚の安定を破壊することと述べた。茫然自失に達したとき、すなわちイリンクスの状態にあるとき、合理的なロジックは重要ではなくなる。余裕のないとき、緊迫した身体状態においては、バイロジカルな思考へ変遷せざるを得ないからである。バイロジックとは、たくさんの論理に開かれているという意味である。例えば、今すぐ追っ手から逃げなければならないという場合は、どの道を走るべきか考えている暇はない。そのため、全ての道が開かれているのである。イリンクスの状態において、整合的な記述ができなくなるのは、そのことに起因する。これはカタストロフの状態におけるひとびとの、断片的記述にもみられることができる。
【註11】イリンクスとは、ロジェ=カイヨワが『遊びと人間』において示した概念である。人間の遊びは、アゴン(競争)、アレア(運)、ミミクリ(模擬)、イリンクス(目眩)の四種類に分けることができるとした。【図版1省略】イリンクス(Ilinx)とは、「一時的に知覚の安定を破壊し、明晰であるはずの意識をいわば官能的なパニック状態におとしいれようとするもの」であるとした。ブランコや回転滑り台、メリーゴーランド、ジェットコースター、ワルツの回転……等が、そのわかりやすい例である。イリンクスを見いだすのは、人間にとどまらない。例えば、犬が自分の尻尾をおいかけてくるくる回る様子や、鳥が非常に高いところから石のように落下し、地面に追突する寸前に羽を広げて、また再び高くへ舞い上がる様子にもみられる。カイヨワは、これらの「無益な練習」は「内的な誘惑によるという以外に説明のしようがない」としている。

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