第一章 カタストロフの定義と諸相

・アート、ないし個人的なものからの逃亡

・捨てられた手紙(草稿)

・孤独と内省 ー傷つくとはどのようなことか

・カタスロフへの期待と恐れ

・カタストロフのゆらぎ

・アート、ないし個人的なものからの逃亡
 カタストロフは一種の傷である。カタストロフから目を逸らしたいとき、ひとは自らの正当性を保証するストーリーによって、自らを心地よく騙すことができる。言い換えれば、カタストロフにあるストーリーを与えることによって、それを一般化/外部化し、自分に無関係な事象であると思い込ませるのである。しかし、そうした表象化によってヴェールに包まれたカタストロフの存在をなかったことにはできない。
 ジョルジュ・ディディ=ユベルマンは以下のように述べている。「あらゆる言葉が身動きを止め、あらゆるカテゴリーが頓挫するところー反駁可能であれ、諸々の命題が文字通り不意をつかれるところーにおいてこそ、ひとつのイメージが出現しうるのだ。イメージ=ヴェールではなく、現実の内光を噴出するがままにさせるイメージ=裂け目である。」【註2】
 イメージには二種類ある。ヴェールとしてのイメージ、そして裂け目としてのイメージである。前者は、ストーリーを与えることによって、裂け目そのものを覆い隠す。自覚レベルでないにしても、直視することによって傷つかないために、あるいはそれが自身の問題ではないと退けるために、事象を一般化していく働きである。カルロ・ギンズブルグによると、表象(英:representation)とは、死者を覆い隠すための空の棺台の覆い【註3】のことを指す。換言すれば、表象というヴェールによって死を覆い隠しているのである。なぜ死を覆い隠す必要があるのか。それは死を、厳密に言えば自らの死を想起しないためである。死ぬのは常に他者でなければならない。これが、カタストロフを隠していく表象(ヴェール)のプロトタイプである。
 カタストロフは個々の知覚によって立ちあらわれる。それは、兆候なくあらわれ、われわれはどうしてもその到来からは逃げることができない。カタストロフには、外因的なものと内因的なものがある。外因的なカタストロフは、顕在的で語られやすい。例えば、生物の規則的な模様に恐怖を感じるようなトライポフォビア【註4】などが挙げられる。そして、内因的なカタストロフとは、個別的であり、潜在的、且つ無意識的である。
 カタストロフの受容において、傷を隠そうとして出でる表象は、自らの傷を覆い隠し、他人事にするためのヴェールである。これは、傷を治癒する過程で生じる。学問をはじめとしたあらゆる文化活動は、この過程において成立するものである。学問が発展するのは、傷を埋めるためであるといってもよい。
 「美しさ」とは人間によって勝手に付与された価値である。動物や植物にとって、その人間的な価値とは無価値、あるいは違う価値であろう。知覚は受動ではなく常に能動であるということも踏まえると、表象それ自体が人為的なものであり、人間的なものが表象を形成するのである。     
【註2】 ジョルジュ・ディディ=ユベルマン著、橋本一径訳『イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』(平凡社、2016年)を参照。
【註3】 彼は、表象とは「棺台に乗せられる蝋、木材、皮革製の人形」、そして「死者用のシーツに覆われた空の葬儀用寝台」とした。カルロ・ギンズブルグ著、竹山博英訳『ピノッキオの眼 距離についての九つの省察』(せりか書房、2001年)を参照。
【註4】 植物等の連続的な穴の模様への視覚的不快感に関し、人間の認知メカニズムを介して解析を試みた論文。佐々木恭志郎・山田祐樹「トライポフォビア ー過去から未来へ ー」『認知科学』(二十五巻一号五十 ー 六十二頁 、日本認知科学会、2018年)を参照。


・ 捨てられた手紙(草稿)
A:「なにかが始まりかけているかもしれない。意味を小さくさせたくなる。しかし怖がりなので、また敷衍する。これがいつまで経ってもねむれないことの原因となっている。時間の経過のはやさそのものである。飛行機がぐらつくような、アナウンスするという行為を隔てて、アナウンスされる側に渡ろうとするのである。思い出を切断したくてもすることができない。できるならば誤魔化しである。一瞬、憑依してしまうのはなぜだろう。」
B :「ある日、一秒後を迎えることが怖くなった。過去の体験を振り返るにつれ、乱雑に積み上げていたことも忘れていた箱が、まだ自らの内に存在することを思い出させた。押入れよりも暗い場所に、埃をかぶり、しんと眠っていたのだった。故郷の土地の名前をキーワードに、自身の記憶を辿ろうとすると、真っさらなノートのページを突き出され、帰れと閉ざされる。硬直状態はさぞ間抜けに見えるだろう。突き詰めれば駅の香りくらいは思い出せるかもしれないが、これ以上発掘できないとみなし、大抵すぐに戻ってくる。拒絶を押し通すことは不可能で、扉を貫通させようとすると、鳥肌が立ち、握り締められているようで苦しい。」
C :「穴とも認識していなかった錆びたはずの鍵穴が開くとき、数秒遅れて、爆発が起こったのだと知らされる。吹き飛ばされ、唖然とする。たったいま、名づけられない作為が我が身を貫通したのだ。急激に自らの体を刺す不快感と出会い、一瞬心地よいのだが、毎秒ごとに戸惑いは加速する。動悸が止まらず、世界からわたしはいなくなる。これが、おそらく自らのカタストロフである。耳鳴りが二日間止まらなかった。柔らかい耳当てから聴こえるような、蟻の叫び声のような、複数の電話のコールが止まないような、静かでうるさい音であった。普段は内に秘めた攻撃性が表に露わになるのではないかと危惧し、友人に会うことをためらい始めた。湧き上がる言葉に感情が乗り移り、苦しいのだ。実際に発声せず、胸の内で発するのであっても、その言葉の意味に食われそうになる。どんどん内にこもっていく。一度穴に落ちてしまうと、復帰に時間がかかってしまうし、何より体調が酷くなる。数日で復帰できるのも早い方である。長いときは数年かかる。」


 これは、自らが「芸術におけるカタストロフ表象」というテーマによってカタストロフ状態に陥った時期に、半ば放心状態でパソコンに記述し、論文として意味をなさないと諦めてデスクトップ上のゴミ箱の中に捨てていた文章群の一部である。文章を書くことができなくなるほど数日塞ぎ込んでしまったのだ。
 文章Aは、耳鳴りと動悸が苦しいときに書いた文章である。文章Aと文章Bは一日以上あけて書いている。文章B、Cと続くにつれ、徐々に心理的な苦しみに関しては回復の一途をたどっていく。記述が具体的になっていくことがわかる。BとCの間で一息ついたので、前後に分けた。
 文章Aは、ロジカルに語ることのできない、断片的な文章である。文章B、CはAに比べて前後の文章の流れは読み取りやすいが、一部、話が飛躍する箇所が見られる。文章A、Bにはどこか他人事のような呑気さがうかがえるが、文章Cにおいては、しっかりと書かねばという理性に追い立てられ、文字を刻みつけなければという切迫した欲求を確認できる。文章Aは、前後の脈絡が分からない、矛盾した文字の羅列である。一夜明けて読み返したときに、論文として成立しない気持ち悪さを感じた。しかし、この文章はどこか詩のようでもある。
 詩とは、慣習言語を用いての語り得なさとの拮抗である。カタストロフの渦中にいるとき、それを表現するには、日常的、論理的な言語では記述することができない。鎮痛作用の成分が含まれる幻覚誘発剤を用い、人工的にカタストロフをつくりあげていたひとびとがいる。幻覚誘発剤の愛用者としては、詩人のサミュエル・テイラー・コールリッジやキーツ、詩人であり劇作家のジャン・コクトー、画家のアンリ・ミショー、画家であり詩人のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、日本では太宰治、坂口安吾、芥川龍之介をはじめとした文豪や折口信夫など枚挙にいとまがない。常用文学者の手記は多く翻訳されている。
 幻覚誘発剤の体験談を綴り、分析した作品としては、詩人であり美術評論家であるシャルル・ボードレールによる散文作品『人工楽園』(1860年)【註5】があげられる。彼は阿片とアシーシュを使用し、その効能を見つめながら、自らが目眩によって制御できない擬似カタストロフを再現した。
 わたしは文章を綴ることが苦手だが、これはおそらく発話が苦手であることに起因する。話す傍から内容が飛び、文脈の整合性が失われる。その癖が、文体にも如実に表れる。自然な発話の流れに準じ、頭に浮かんだまま綴っていくことが執筆の近道であるが、前から順に読んだときのリズム感が気持ち悪くなり、自身の文章に対する失読症から筆が進まなくなる。しかし、飲酒をすると、リズム感の違和すら感じなくなり、何者かが次々と言葉を連れてくるのを受け入れる態勢に移行するのである。考えて書くというよりは、受信するままに神経を研ぎ澄ませる感覚である。これは、ヘンゼルとグレーテルが森の小路に落としていったパンくずを、目の前の食欲に駆られるがままについばむ鳥のような気持ちである。断片同士が描く星座については、知る由もない。
 カタストロフを記述していくにあたって、文脈に意識を奪われて落ち込まないように、締め切り数ヶ月前から気を張りつめていた。正気を保つには、目の使い方、考える時間、自身の体調を考慮する必要があった。目の使い方に関しては、デッサンをするように、自分自身がカメラになったように、写真を撮影するように、強く意識する。〈みえて〉いるものの文脈に流されないようにするためである。これを持続させるためには多大な精神力を要するが、自らの努力次第である程度コントロール可能なものだと思い込んでいた。研究対象として距離を置くのであれば尚のことストイックであるべきで、落ち込んでいる暇はなかった。ところが、テーマを選んだのはほかならぬ自分であるにも関わらず、何回かうっかり足を滑らせた。
 カタストロフとは複数の要因や環境の問題が絡み合うため、ひとつひとつを自律化して捉えることはできない。箱のうちのひとつか、ふたつかみっつ……いくつか数えることはできないが、何かの拍子にそれらの鍵が開いてしまったのである。(この箱は、形状や中身、それぞれひとつとして同じものはないが、おそらく誰でもひっそりと抱え込んでいるものだろう。)何に起因したのか、正体を突き止めることはできると思うのだが、穴を覗くことがまた自身のカタストロフを想起させるのではないかと恐れ、語るにためらう。
  「カタストロフは語り得ない。まして渦中なら尚更、ゆえに共有不可能である。」――これは、執筆活動における文脈とは距離を取ろうとしていた言葉である。筆をとっている最中に自分自身が体験することになることを恐れていた。そうはいっても、もはや「単に恐れているだけ」と主張することはもうできない。制御不可能の状態を導く、計り知れない存在への胸騒ぎを感じなかったといえば、嘘になる。
 草稿を一度捨ててしまったのは、ひとつは読んだときに気持ち悪さを覚えるからだった。そして、もうひとつは、論理性に欠けた文章は論文に適さない表現であると思い込んでいたからであった。前者は稿者の内省の問題で、後者は詩の問題である。しかし、カタストロフの渦中に苦しんでいるとき、ロジカルに語ることは不可能である。カタストロフにおいて語るとき、ひとは断片的な記述に開かれ、そこに詩が生まれる。
【註5】興味深いのは、アシーシュを服用したボードレールが、擬似的カタストロフ状態から脱する際、自らの不在を確認したと述べていることである。彼は、「至高の状態」から醒めゆく朝、「時間がまったく消滅」していることに気付いてしまう。
「己は眠ったのかしら?それとも、眠らなかったのかしら?己の酔は一晩中つづいたのであろうか?あるいはまた時間の観念が除き去られてしまった以上、夜全体が己にとって一秒くらいの価値しかほとんどなかったのではないかしらん?それとも己は幻がいっぱいに立て籠めた睡眠のヴェールのなかに埋まっていたのかしらん?」 (シャルル・ボードレール『人工楽園』)
 ボードレールは、アシーシュの幻覚効果について大きく三段階に分けられるとした。観念の関係が非常に朦朧としていき、自身の思想を連絡する糸が極めて希薄になっていく第一段階、幻覚が起こりはじめ、周囲の物体が歪んだり変形したりし、自身の存在に入り込む第二段階、そして「何か名状すべからざる」と前置きされた、静かな不動の福楽による陶酔の第三段階である。これらを経て徐々に目が醒めゆくという。その間、誰であろうと、彼の消息を明らかにすることはできない。ボードレールが指摘する「自らの不在」には、プルーストによる「帰ってきたばかりの短い時間のあいだは、とつぜん自分自身の不在に居合わせるという能力を手にする、長続きしない特権」という一文を彷彿させる。これは、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンが 『イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』)の中で、観察における眼差しを分析する文脈において引用した言葉である。この「自己の不在」は、芸術鑑賞における一時的な死/自己再生に関連すると考えられる。鑑賞における「死」に関しては、第二章で後述する。


・孤独と内省 ー傷つくとはどのようなことか
 自らが否認している部分に触れてしまうことが〈傷つく〉ことである。この考えに至るまで、わたしは作品鑑賞における不快な感情の存在から、目をそらし続けていた。理由は二点挙げられる。
  一点目は、一瞥するだけで、作品の有するたくさんの眼でこちらを見られるような、足がすくむような、作品の発する空気感に飲み込まれるような、独特の感覚に陥るからである。何かが、胸のどこかに瞬時にリンクし、アクセスされ、作品空間の中に施錠して閉じ込められるような、拘束感がある。別の言葉を探せば、一体感ともいえるかもしれない。同じ空間の中に、自分と作品だけが対峙しているのだから。しかし、そのうち「自分はここにいてはならない」と考え始める。適切な言葉をまだ見つけられていないのだが、共犯者のような意識が浮上し、「これ以上は自分の中に抱えられない」、「見る前の自分に戻りたい」と逃避し始める自分がいる。作品を突き放そうとするのだが、結局、振り返って何度も見てしまう。自分から接近しているのに、助けを求めたくなる。鑑賞によって浮き彫りになった、激しく、そして気づきにくい誘引力がそこに存在している。
 二点目は、きっと、納得できないもの(多様なありよう)を受け入れる余裕がないからである。「出会いたくなかったと感じる」という意味では一点目と似ている。なぜ今、この作家の意思が、形となって自分の目の前に立ちふさがっているのだろう、と耐え難い恐怖とかえられてしまう。自分自身が、作品の持つ空気感を嫌悪している、という気持ちに気づくこと自体も苦痛である。その「よくわからない感じ」に、理由をつけて無理やり納得した気になることもある。しかし、本当の意味で、多様なありようをすべて理解することはできない。他者を他者と認めず、自己同一化を図ろうとする。これは、不快から快への変換を試みる行為であり、自身の感受性そのものを捻じ曲げて否定してしまう。それは、自分を傷つけないために、遠回りに行われる。
 これまでも多くの作家や思想家たちが、芸術作品が発する気迫について様々な語り口で表現してきた。例えば、作家の岡本太郎は「わかる・わからないということをこえて、いやおうなしに、ぐんぐん迫って、こちらを圧倒してくるような[…]いやったらしい」【註6】ものであるとした。哲学者であり精神分析家であるジャック・ラカンは「その前ではすべての言葉が止まり、すべてのカテゴリーが座礁するもの、極めつきの不安の対象」【註7】であるとした。詩人であり劇作家であるジャン・コクトーは、「事物や人間の分析から洩れてしまうある異常なものの提供に意義のある、甚だ卑近な、しかも人間的で単純な奇蹟」【註8】と述べた。ひとは芸術の手綱をとることができない。それどころか、理解不能性に呑み込まれてしまうこともある。
 ジャン・コクトーは1930年に、自身で監督・脚本・編集を務めた映像作品『詩人の血(原題:LE SANG D'UN POETE)』を発表した。興味深いのは、コクトーが脳に飼っているという「裁判官」が、『詩人の血』のショッキングなシーンを見て混乱している、と述べていることである。「映画をつらぬいて流れる血が[…]ひとを不快にさせ、わざわざショックを与えるのが、いったいなんの役に立つのか」【註9】と、コクトーの中にある別人格が問う。
 『詩人の血』を初めから最後まで見通すと、奇怪な場面転換が強く印象に残る。まるでプールに飛び込むかのように鏡の中に潜る男、手のひらにもともと存在するかのような生々しい唇、重力に従わない少女と壁の不自然な関係、少年たちによって雪玉に姿を変える石膏の粉、軋んで崩れる塔の風景……。私は映像を眺めながら、我々の存在する現実世界では起こり得ない現象について考察を試みるが、自らの経験による直感や知覚が頼りないことに気付かされる。映像に出演する登場人物の存在を一度疑うという経験によって、現実世界における物質への存在の懐疑を覚える。
 コクトーの脳内の「裁判官」が惑わされているのは、目の前の怪奇的な現象が現実には存在不可能であるとみなし、イメージに対する素朴な認識を超えた先にある世界に足を踏み入れることができなかったからである。コクトーによると「彼らは眠っている」のである。それゆえに「新奇な見もの」だと、彼らの中で完結してしまう。これは、わからないものに対して言語化することによって一般化を図り、理解したことにしようとする働きである。コクトーは、自身が作家でありながらも表面的な芸術愛好家の視座を内面化させていたことが興味深い。
 自らが理解できないものに対して「新奇な見もの」であると断じてしまう「裁判官」は、博物館や美術館に訪れて「わあ、すばらしい」、「おもしろい造形だね」などと作品を見るや否や即座に称してしまうひとびとを想起させる。それらのコメントには、自分たちの秩序が脅かされることへの恐怖がうかがえる。
【註6】  岡本太郎『今日の芸術』(光文社、1999年)を参照。
【註7】 ジャック・ラカン著、小出浩之訳『フロイト理論と精神分析技法における自我』(岩波書店、1998年)を参照。
【註8・9】  ジャン・コクトー著、秋山和夫訳『ぼく自身あるいは困難な存在』(筑摩書房、1991年)を参照。


・カタストロフへの期待と恐れ
 台風や嵐の日など、猛烈な悪天候にも関わらず、河川等の氾濫を見に行って濁流に飲み込まれてしまうひとがいる。一部の見解では、「自分だけは大丈夫」だと思い込んでしまう正常性バイアス【註10】によるものとされている。しかし、心から身の安全を信じることができていれば、安全なはずの家のなかにいてもよいのだし、「自分だけは大丈夫」だからこそ、不安になって外の様子を確かめる必要もない。
 正常性バイアスが働いている上で、あるアンビバレントな欲動が、異変や被害状況を見に行かせる。そのアンビバレントな欲動とは、自らに影響を及ぼす可能性をもつ「異変の到来」に対する恐れと期待である。過去の自己経験では比較できないほど猛烈な自然のエネルギーを凄まじく恐れ、期待を抱くからこそ、いてもたってもいられなくなり、もっとも危険なはずの外へ飛び出してしまうのだ。
 これは、エンターテイメントで言えば、ホラー映画を鑑賞する人々の中にも認められ、アミューズメントではジェットコースターからバンジーなど、目眩(イリンクス)を伴う体験にも認められる。この恐怖と期待という両義性を押さえておかなければ、カタストロフについては論じ得ない。目眩(イリンクス)を伴うカタストロフ体験については、美術制作から鑑賞までほとんど自覚されない程度にではあっても、中核となる体験と思われる(イリンクスに関しては、第二章の「目眩とカタストロフ」にて後述する)。
 パチンコや競馬で負けても、ゲームセンターで目当ての景品が得られなくても、散財することに爽快感を覚えるひとがいる。それらの娯楽施設における明らかな報酬が、賭博の勝利や景品の獲得であるにも関わらず、到達し得ない状況に安堵し、何度も訪れるのである。もはや、何かを勝ち取り、優越感を得ることが目的なのではなく、勝負事における自らの力の及ばなさに安心しているのだと言える。勝利の女神が微笑むという慣用句は、まさに自らに笑みを向けない女神への羨望の表れである。常に愛される状態が継続するのであれば、わざわざ彼女を惚れ込ませる必要もないからである。この場合においても、自分だけは負けないという正常性バイアスのみが働いているのではない。敗北こそが、自らの制御を超えた実在(擬似的な神なる大他者)を確認させ、自分自身を奮いたたせる新たな闘いへの期待をもたげさせる。
【註10】正常性バイアスとは、災害リスクに関する正常化の偏見等の意識を指す。避難行動に付随する意思決定のデータに関して、桑沢敬行・金井昌信・細井教平・片田敏孝「津波避難の意思決定構造を考慮した防災教育効果の検討」(『土木計画学研究・論文集』23巻2、2006年)を参照。


・カタストロフのゆらぎ
 共同体とは、常に揺らいでいるのである。共同体とは、個の集合体である。共同体のカタストロフとは、共同体が崩れることである。しかし、小さな変化に注目すれば、それは常に崩壊しているようなものなのである。それを常に補修し続け、元の大枠の形を保とうとするのである。
 共同体には共通のコードがあるが、それは常に時代の変化によって、ゆらいでいるものである。それは、小さなカタストロフとも言えるものである。しかし、大変動ばかりがカタストロフだと認識されることが多いのだ。コードとは固定化されないものであり、小さなものの大きなものも、区別はつけられない。記号や表象は、常に古びていくものなのである。

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