序章

・研究の動機・研究の目的・先行研究の検討

・研究の動機
 昔から、〈傷つく〉ということについて考えてきた。小学校の道徳の授業では、やってはいけないことのいくつかを教えられたが、幼少期は「自分がされていやなこと」への感度が鈍かったため、なかば鵜呑みにするように理解していた記憶がある。それでも、できるだけ相手を傷つけることはしたくないと思い、ひとが傷ついてしまうメカニズムについてなるべく思量してきた。友人が、自分を見て悲しんでいたり怒っているときは、そのひとがその特定の感情へ導かれた理由を推測しようとした。人混みで、誰かがどなっている声を聞いたときは、そのひとがどんな姿勢でどんな表情を浮かべているのか、気付かれないように覗き見た。先の8月6日を語る学校の先生の、とつとつとした喋り方や、教室の静けさには、ひとり取り残されたような気分になり、採るべき態度を模索した。ときには、失言をしてはいけないと注意されて、状況に応じてふるまうことの難しさに悩んだ。自分よりももっと過酷な、不可解な状況下における、ひとの身体や心の変化について知りたくなり、『夜と霧』をはじめとした体験談を求めるようになった。
 稿者は広島市出身ながらも、大学に入学するまで、Chim↑Pomによるパフォーマンス作品『ヒロシマの空をピカッとさせる』(2009年)を知らなかった。その後、作品に対して「不気味だ、傷ついた」と感想を述べた市民がいた事実を知った。また、SNS上でアーティストに対し「作品に傷ついた」と述べるひとがいる。鑑賞していないにも関わらず「作品に傷ついた」と述べるひともいる。(これは、研究を進めていた8月、あいちトリエンナーレ2019において、如実に露呈された事実である。犯罪予告も行われ、人間の生死に関わる深刻な問題となった。)そして自分自身、広島平和記念資料館の再現展示を見た時の衝撃や、『はだしのゲン』を読んだときの衝撃や、丸木位里と丸木俊による『原爆の図』に触れたときの衝撃が幼少期から忘れられず、漠然と苦しさを抱え込み続けていた。思い出すだけで胸が痛むため、誰かに簡単に相談できることではなかった。
 これらは、自身の心の傷に関する問題である。しかし「傷ついた」と安易には述べられない複雑さを孕んでいる。〈傷〉の語り得なさ、そして〈傷〉を〈傷〉であると認めがたい違和感をどうにか言語化したいと考え、このテーマを設定するに至った。
 しかし、動機を自分の身に言い聞かせるのであれば、以下のようにシンプルに換言できる。「自らをみつめ、そして自らの存在そのものを愛するため」である。


 ・研究の目的
 本研究では、われわれの心を激しく掻き立てるカタストロフの正体を考察する。心の傷が剥き出しになってしまうきっかけとは無意識的なものであると仮定し、それが何のためであるかを解き明かす。カタストロフはわれわれを否応にも立ち止まらせるが、いきるためなのか。いきるためであるならば、なぜいきるために苦しみを引き受けなければならないのか。そもそも、カタストロフとは、われわれの言語をもって語りうるものなのか。
 自然的、生物的、社会的、美学的……。表象化以前にどのようなカタストロフがあり、カタストロフの社会化によって何をひらき、何を閉じようとしているのか明らかにする。


・先行研究の検討
 カタストロフという言葉は、文学、心理学、社会学、政治学、経済学、数学、地震学、環境学、物理学、生物学、医学など、多岐に渡るジャンルでそれぞれ見られる。カタストロフという言葉の原義が指す通り、多くの場合、転覆/崩壊を指す言葉として使用される。
 代表的なカタストロフ表象の先行研究としては、寺田匡宏の『カタストロフと時間:記憶/語りと歴史の生成』(2018年)が挙げられる。彼は極限状態のことをカタストロフと定義した。主に震災や戦争、原発事故を通して、悲劇の後ろに隠されている語り得ないことの存在を示した。また、ベウジェッツ絶滅収容所を例に挙げ、博物館による感情操作を指摘した。環境人間学という分野ではあるが、展示ナラティブを考察するにあたって参考になる文献でもある。寺田匡宏は、過去、現在、未来の流れ、時間をキーワードに、記憶/記録されるものとしてのカタストロフを読み解いた。
 本稿では、無意識に恐れを覆い隠すものとしての表象(ヴェール)、またあらゆる場に遍在する表象、〈裂け目〉としてのカタストロフを取り扱う。芸術と向き合うことは、自身の傷を認め、傷を負った自分をも愛することである。傷を負った姿を受け入れることは並大抵のことではない。かすり傷などではなく、内臓が露出するレベルの生死に関わるレベルで損傷するからである。そして、カタストロフを語る上では避けられない、崩壊への恐れと期待の両義性について考察していく。
 カタストロフという言葉が文学で使用されるとき、恋人の浮気からはじまる身近なカタストロフから、人類滅亡を表す地球規模のカタストロフまで、作家によってスケール感が異なることがうかがえる。社会学で使用される場合、「フクシマ」などの象徴化された出来事とセットで語られる場合もある。経済学においては、巨大な被害規模の危険性をカタストロフ・リスクと呼ぶケースがあり、医学においては、偶然的に発症する何らかの機能障害のことをカタストロフィと呼ぶケースを確認できる。
 では、芸術においてはどうだろうか。森美術館において『カタストロフと美術のちから』展(2018年10月6日―2019年1月20日)が開催された記憶が新しい。東日本大震災やアメリカ同時多発テロ、リーマンショック、宗教分裂をはじめとした出来事をテーマにした作品が取り扱われると同時に、個人的なカタストロフが表出した作品も見られる。
 フェリックス・ゴンザレス=トレスによる、“Untitled(Beginning)”(1994年)【註1】という作品がある。天井から碧色と水色のビーズのラインが幾本も垂れ下がり、カーテンのように来場者を立ち塞ぐ。彼の多くの作品は、作品の一部を持ち帰ることが可能であったり、鑑賞者が作品と身体的に関わる選択肢を与えるものである。彼の言葉による制作意図は、一切掲載されていない。ただ、通路を通り抜けるには、彼の作品に触れざるを得ない、それがこの作品に関する、数少ないたしかな情報である。この作品におけるカタストロフとは、一般化された災害や事件を直接的に表すものではない。『カタストロフと美術のちから』展では、カタストロフの個別的側面に焦点を当て、「負を正に転ずる力」を展覧することで、少なくともカタストロフを負の側面にとどめない意図がうかがえる。芸術鑑賞におけるひとびとの心の動きを分析することが、カタストロフの象徴化や抽象化に抗するための足がかりになることを期待する。
【註1】カタストロフ(仏:catastrophe)とは、突発的で偶発的な不連続現象を指す。原義はギリシア語で「決定的な転換や転覆、反転」であるとされる。人間の力をいかに適応させるか、または補うかという問題において、われわれはカタストロフと向き合わざるを得ない。カタストロフという言葉がどのような意味合いにおいて使用されてきたか、という言葉の背景については、西山雄二『カタストロフィと文学』(勁草書房、2014年)、長谷川唯・桐原尚之「他人の介入によって立ち現れるカタストロフィ:ディスアビリティの解消をめぐって」(『立命館言語文化研究』28巻1号、243―254巻、2016年)を参照。

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