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おんなのひと 三

 第二次世界大戦中、大日本帝国は戦力となる男児が必要であるとして、軍事用の男児製造機を実験的に導入しました。私はその機械に栄養となる粉を水で溶いて流し込む作業をしていました。工場の中には、二百五十三個の青い液体の入った大人の人が一人入りそうな程の大きな筒状の水槽があります。それにはしごをかけて登って、一つの水槽に一日一回栄養の入った液体をバケツ一杯流し込みます。バケツを持って広い倉庫を行き来するのは手が痛かったけど、最初は何もなかった水槽の中に小さな生物が見えて、それが大きくなっていくのは少し前まで飼っていた犬か小さい頃持っていたお人形を育てるような感覚があって楽しかったです。でも、一年ぐらい経つと、だんだん配給される食べ物が少なくなっていったから、私はときどき栄養の粉を食べました。たまに研究員が来て、成長が遅い、もっと早く成長させられないのか、と言っているのを聞いて、栄養の粉を食べているのがばれているんじゃないかとひやひやしました。それでも、水槽の中の子たちは三歳くらいの大きさになっていました。
 二年後、戦争が終わりました。それがどういうことなのかはわからなかったけど、大人たちにこんな機械、GHQに見つかったら大変だからと撤収作業を命令されて、とにかくこの子たちは要らなくなったんだとわかりました。水槽の中の子たちは十歳くらいの大きさになっていました。ぱちっぱちっと彼らのへそからチューブが抜かれていくのを見ていました。
 キャラメル、キャラメルを食べさせてあげたいと思いました。それは私が思う甘くて美味しいと思う一番のものでした。そして、私がこの子たちの母親になろうと思いました。そうしたら、むしろこの子たちは幸せなんじゃないかと思えました。痛みも悲しみもなく死ねて。他の兵隊さんたちはお腹を空かして身体中けがをして亡くなったのだから。だから、この子たちは、何の痛みも恐怖もなく、ただ美しく可哀想に玉砕できて、よかったんじゃないかと思いました。そう思ったら、今度は羨ましくなりました。なんで、私がこの子たちが死んだことを悲しまなくてはならないのだと腹立たしく思いました。
 私が水槽の中の液体を抜く間も、何も知らずに、美しい青い液体の中で、何にも繋がっていない子どもたちは浮いていました。生温かい液体が手について、私も、美しく、無垢な中で死にたかったと思いました。

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