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ばっちゃん記《その壱》

私の母は昭和5年生まれで、今年90歳になった。
東京杉並区の自宅で、今もほぼ自力で生活している。孫が同居しているが社会人なので日中は留守であり、90にして身の回りのことを一応ひとりでできるというのは本当にすばらしい。

しかし、寄る年波でときどき言動があやしいこともあり、ボケ防止のため「生い立ち」について彼女の記憶を引き出す試みを始めた。
彼女の父親、母親についても、辿れるかぎりのルーツを辿って記録を残そうと思う。

私にとってファミリー・ヒストリーを辿る記憶の旅があまりに楽しかったので、ときに枝葉の部分に脱線しがちかもしれないが、そこは興味がなかったら読み飛ばしてもらってかまわない。

もとより、私の家族のために書き残そうと思って始めたことであり、一般の読者を想定しての記述ではないのだが、昭和の初めに生まれ戦前・戦中・戦後を生きた人間の歴史として、手ごたえのあるものに仕上がってくれることを期待している。

以下、引用部分は母の語りであり、地の文は私が考察を加えたものなので、いちいち視点が変わって紛らわしいかもしれないが、お間違いなく。


1. 父親(藤田敬一)のこと

私は1930年(昭和5年)、大分県佐伯市で生まれました(正確には、母が東京に里帰りして出産したので、東京・渋谷の日本赤十字病院で生まれたのですが)。父は藤田敬一、母は千代子―結婚前の姓は菅野(すがの)。父と母が結婚してはじめての子で、和子(かずこ)と名付けられました。後に妹二人と弟一人が生まれ、4人の兄弟姉妹の長女となります。

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藤田敬一・千代子結婚写真

千代子さんは、結婚当時(昭和4年)としては背の高い女性だった。私が覚えている晩年の姿も、すらりとした着物姿の似合う人だった。敬一さんはこれに対し、小柄なほうだったかと思う。敬一さん30歳、千代子さん20歳。敬一・千代子は私の祖父・祖母にあたるけれど、以後敬称略。


父の敬一は東京大学―当時は東京帝国大学工学部の出身で、建築技師として海軍に勤めていました。各地の軍港などに派遣され軍関係の建築物を設計する仕事だったので、転勤が多かったようです。私が生まれた佐伯という場所も、転勤先として当時住んでいたというだけで、特に親族などの関わりがあったわけではありません。

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藤田敬一写真・前列右から2人目。写真の台紙に "S.Ichida/Kobe & Osaka,Japan" と印刷され、「市田」のレリーフがある。写真のメンバーについては不明。東京帝国大学時代か。

藤田の実家は渋谷区永住町というところにあり、今の広尾2丁目のあたりになります。各国大使館が点在し、有名人の邸宅があったりする地域です。子供の頃、ときどき訪ねていましたが、当時も高台の高級住宅地といった雰囲気でした。家は小さかったけれど、いかにも旧家という趣きがありました。

藤田の家には子がなくて、敬一は養子として入ったと聞いています。私が生まれたとき、祖父鐇(たつぎ)はもう他界していて、祖母の留(とめ)が一人で暮らしていました。

敬一は留さんの姉の子、つまり甥にあたります。藤田の本家は高知県にあり、留の実家の吉川家ももとは高知ですが、敬一が子供のころ大阪に引っ越したようです。敬一は麻布中学進学を機に上京して鐇と留夫婦の家に住み込み、18歳のとき正式に養子縁組しています。

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敬一が養子として迎えられた藤田家とは、どんな家だったのか。敬一の養父の鐇(たつぎ)は「日本郵船の重役さんだった」と母は言う。実子がなくて養子を迎えたのなら、自分の後継者と考えてのことではないのか。私は少々違和感を覚えた。

日本郵船とはどんな企業だったのだろう。


2.日本郵船と藤田鐇(たつぎ)

調べてみると、日本郵船は現在も巨大タンカーはじめ運行船舶数700隻を超える海運会社で、日本と世界を結ぶ物流の大きな部分を担っており、名前を知らなかったことが申し訳ないほど、私たちの日々の暮らしを支えている企業だった。

日本郵船

日本郵船の歴史は、岩崎弥太郎の九十九商会に始まる。坂本龍馬の「海援隊」に影響を受け、土佐で海運業を興す決意をした岩崎弥太郎は、明治3年(1870年)、東京・大阪・高知間で海上物資運送を行う九十九商会を設立。のちに三菱商会-郵便汽船三菱会社を経て、明治18年日本郵船となった。

開国直後の日本で、当時欧米列強に占有されていた海運業を自国の手中にすべく奮闘し、貿易立国を目指す日本経済の牽引役を果たしたのだった。
日本の主要な港と朝鮮・上海・マニラ・東南アジア・南太平洋・北米などを結び、明治時代中ごろにはインド・ヨーロッパへも航路を開き、貨物船のほか客船も多く運行していた。

日本郵船の客船ビジネスはサービスの質の高さで評価され、乗船名簿にはチャップリンやアインシュタイン、ヘレン・ケラー、リンドバーグなど著名人が名を残している。(以上、上記サイト内「日本郵船の歴史」より)

余談になるが、昭和57年に藤田敬一が亡くなったとき、相続のために「出生から死亡までの戸籍を全部揃える」という作業が必要になった。各地の自治体から、おそらくマイクロフィルムで保存されていただろう恐ろしく古い手書きの戸籍謄本(コピー)が多数集まり、ろくに読まれることもなく保管されていたらしい。

敬一の死後藤田の家には妻の千代子と長男晴夫が残され、千代子亡き後は晴夫がひとり住んでいたが、平成28年に晴夫も世を去り、無人になった藤田家の大片付けが行われた。

敬一の古い戸籍謄本はこのとき発掘され、私の母が保管していたが、ここへきて藤田の家系をさかのぼる役に立ち、大変興味深かった。敬一と千代子の古い写真や書簡なども、このとき発掘されたものだ。


ここで話は藤田敬一の養父鐇(たつぎ)の出身地へ飛ぶ。

藤田鐇(たつぎ)は安政6年3月6日、高知県土佐郡小高坂村271番地で生まれた。
父の名は藤田惟資とあり、鐇は次男であった。兄の名は藤田惟彦で、彼が家督を相続している。この情報が記載されているのは現在閲覧できる最も古い時期の戸籍と思われ、母の名は空欄になっている。
鐇は明治25年8月12日、吉川留と結婚し、明治42年1月11日に分家の届出をしている。
同じ日付で「東京府豊多摩郡渋谷町下渋谷117番地」に入籍しているので、分家は東京勤務となったためと考えられる。

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藤田鐇の戸籍謄本コピー

鐇が生まれたのは幕末の土佐藩で、父の名前から士分の家かと思われる。安政6年は西暦でいうと1859年。明治元年が1868年なので、9歳で明治維新を迎えたことになる。

あくまで私の妄想の世界であるが、岩崎弥太郎が生まれたのは1835年なので、鐇が生まれたとき弥太郎は24歳。ということは、鐇の父の惟資は弥太郎と同世代か、少し上くらいではなかろうか。

九十九商会が設立された明治3年という年に、弥太郎は35歳。このとき鐇の父惟資が存命していたか、またどんな仕事をしていたかは定かではない。しかし、高知における岩崎弥太郎の創業、あるいはその後の日本郵船の事業に、藤田家の人々がかかわっていたとしても不思議ではない。自分の先祖が歴史上名を残した人と同時代に同じ場所にいて、少なからずかかわりを持っていたと考えると、わくわくしてくる。

鐇が婚姻届を出した明治25年ごろ、日本郵船は中国・朝鮮半島などの近海航路からインドへと航路を拡大しつつあった。当時日本の基幹産業であった紡績業の著しい発展から、インド・ボンベイへ綿花輸送のための航路を開くことは喫緊の課題であったが、既存の欧米の船舶会社からバッシングを受け、激しい貿易競争の中にあった。しかし、事業拡大が完全に国益に沿うものだったために、国内的には優遇され、着実に船舶数を増やし成長していったものと思われる。

母の言う「日本郵船の重役さんだった」という話は、鐇が高知にいたころから日本郵船の職についており、事業拡大にともなって東京勤務となったと考えるとつじつまが合う。鐇が分家届を出した明治42年には、兄の惟彦が戸主となり小高坂村の同住所に藤田家が存続していた。


3.藤田鐇の東京移転と敬一の入籍

戸籍によると、藤田鐇は明治25年8月12日、高知県土佐郡中新町に住む吉川鉄蔵の四女、留(とめ)と結婚し、婚姻届を出している。このとき鐇は33歳、留21歳。

この夫婦には子がなく、明治42年に東京・渋谷に移転するに伴い、最初の養子を迎えることになった。鐇の兄惟彦の孫で、熊沙奈左奈恵夫婦の次男にあたる正卯である。正卯は明治36年生まれで、明治42年1月27日に養子縁組の届が出されているので、6歳で大叔父の家に迎えられ、東京に移転したことになる。

母が記憶している渋谷の藤田家は、小高い閑静な住宅地にあった。江戸時代には武家屋敷が散在する屋敷町だったエリアである。明治維新で武士たちが去ったあとも、普通の民家が立ち並ぶということはなく、国家の要職や大使館に利用されていたようだ。

藤田鐇・留夫婦は、この後二人目の養子を迎えているが、これが敬一であった。敬一は明治32年生まれなので、年齢的には正卯より4歳年上なのだが、どういういきさつで二人目の養子となったかはわからない。

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敬一ポートレート、おそらく十代初めごろ。台紙の印刷から、東京(南青山)で撮影されているのがわかる。麻布中学入学の頃か。


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母によると、「留さんの甥にあたる」とのことだったが、正確には留の姉寅(とら)と夫吉川金之助夫婦の五男になる。

余談だが、金之助は明治20年11月29日、高知県土佐郡南新町の田所家から、寅の配偶者として吉川家に入っている。当時は家父長制で「家」というものが社会の構成単位と考えられていたので、子がなかったり女子ばかりだったりすると、養子をもらうことが多かった。

敬一は明治32年5月2日生まれ。戸籍では「五男」となっているが、すぐ上の兄正身は出生後2ヶ月で亡くなっており、兄としてはその上の「直喜」と長兄「秀一」が確認されるだけなので、もしかすると出生直後に亡くなった男児がもう一人いたのかもしれない。

敬一が藤田家の養子に迎えられたのは大正5年(当時18歳)であるが、上京はそれより早く、麻布中学入学と同時と思われる。麻布中学当時の生徒手帳が残されており、保護者欄に藤田鐇の名が見える。

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生徒手帳は入学時から卒業まで使われたものらしく、大正5年までの出欠記録がついている。表紙の氏名欄に紙を貼って訂正してある様子、また「旧吉川」の表記もあるので、それまでは吉川姓だったことがわかる。

表紙を開いたところに「本人」と「保証人」欄があり、「族籍」「平民」などと記されていたり、左のページには有名な「教育勅語」が掲げられているのが、いかにも戦前の生徒手帳である。通知表を見ると成績優秀だったらしく、その後東京帝国大学工学部に進学している。

母の話によると、当初は船舶学科だったのだが、入学してから建築のほうが面白くなり、建築学科に転科したのだという。

敬一が東京帝国大学を卒業したと思われる大正9年の12月6日、藤田鐇が60歳で亡くなっており、正卯が藤田家の家督を相続している。このとき、正卯がどのような進路を選んでいたかはわからない。

残念ながら正卯は4年後(大正13年)に22歳の若さで亡くなり、最終的に敬一が家督相続している。結果的に、藤田家には船舶にかかわる跡継ぎが残らなかったが、この後日本は軍国化が進み、日本郵船も軍用品や兵士の輸送をメインに行うようになるので、敬一の選択は先を見てのことだったのかもしれない。

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この写真、船の甲板で撮られたもののようだ。


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こちらは東京帝国大学構内だろうか。詰襟につばのある帽子、風呂敷包みといういで立ちは、当時の学生として普通だったのだろう。


敬一は、技術畑の人であったが文化人としての素養があり、ことに西洋の文化・芸術への理解が深く、クラシック音楽を好み語学もできる人だった。

母が小学校1~2年のころ住んでいた横須賀の海軍官舎には「蓄音機」があり、敬一がよくクラシック音楽を聴いていたという。子育てについての考え方も、当時としては考えられないほどリベラルだった。後に上海・漢口へ単身赴任となった敬一から千代子へ宛てた手紙の中で、子供たちの

「それぞれの長所を見出し、十分に伸ばしてやるように」

との記述がみられる。

母の上記の横須賀時代、官舎の前に広っぱがあり、男の子たちが自転車を乗り回しているのがうらやましくて仕方なかった。「成績がよかったから、ごほうびをあげるよ。何がいい?」と言われて、迷わず「自転車!」と答え、買ってもらったという。

当時は「女の子は女の子らしく」家の中で遊ぶというのが普通で、自転車なんかもってのほかだった。家族内での母の呼び名は「ビヤ」。活発で外遊びが好きだった幼少時、誰かに「坊や」と言われて、自分でも自分を「ぼうや」というつもりで「ビヤ」になったのだとか。(閑話休題)


4.まとめ

私の祖父藤田敬一について、母の話の聞き書きとそれを裏付ける古い文書の発掘(?)調査で、興味深いファミリーヒストリーが明らかになり、とても面白かった。

特に、敬一の実家である吉川家と、養子に入った藤田家の高知市での歴史について、さらに調べてみたいことが沢山あり、ここに書かなかった発見がいくつもあった。また稿を改めて書いてみたい。


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