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滝本政博詩集「エンプティチェア」感想

先日、詩人の滝本政博さんから詩集「エンプティチェア」を送っていただきました。お世辞でも何でもなく滝本さんは私にとって好みの詩を書く詩人の1人であり、初めての詩集である「エンプティチェア」の収録作品も素晴らしいものばかりでした。それらの中でも特に私の心を刺激してくれたいくつかの詩について、感想のようなものを書いてみたいと思います。批評ではなく感想ですので見当違いなことを言っているかも知れませんが、どうかご容赦ください。なお収録順に取りあげています。

「エンプティチェア」

詩集のタイトルにもなった作品です。この詩は今はなき文学極道というサイトに投稿されて2020年10月の月間優良作品に選ばれました。滝本さんが文学極道へ投稿を開始したのはサイトが閉鎖される直前だったのですが、10月と11月の2か月の間に優良2編、佳作2編という結果を残しています。もしも文学極道が続いていたら、間違いなく年間賞を獲っていたと思います。それくらい彼の投稿作品は優れたものばかりでした。わずかな修正はありますが、詩集に収録されたものは文学極道発表時とほとんど同じ内容です。空っぽの椅子は「大切な人の不在(喪失)」の象徴でしょうか。そういえば心理療法に「エンプティチェア」という技法があるそうです。空いている椅子に特定の人物が座っていると仮定して、言いたいことを伝えるというやり方だそうです。この詩の語り手が言いたかったこととは何なのか。分かっているのは、もうそれを伝えることができないということです。死別でなくても「再び会うことができない人」はいるものです。その人に伝えられない言葉を抱えたまま、それでも生きていくしかないのでしょう。「眠りから覚めても自分が自分であることの不思議」という言葉の中に、巻き戻せない人生の哀しみと祈りを見たような気がします。

「雷鳴」

高校卒業後間もないとき、ラブホテルから出てきた2人にトラックの運転手が野次を飛ばす。それに対して彼女が叫ぶ。きっと怒りの言葉だったのでしょう。その叫びに、行為に、語り手は衝撃を受けます。切り取られ、縫い付けられた青春の断片。映画のワンシーンを観ているように鮮やかな印象を残す作品です。

「賛歌」

夏の海辺での物語。「砂浜に/へこんだ お尻の跡を残し あなたは/青の轟音に追い立てられるように海に入ってゆく」という描写の素晴らしさ。すべての生命が最も活動的になる夏に生命のスープである海に浮かぶ彼女を、これも生命の象徴である太陽が照らす。文字通り命の賛歌であり、青春の賛歌であると感じました。

「何処にいるのですか」

「何処にもいない人を捜している/その人に逢ったならば/まず謝ってしまおう/わたしのした悪いことすべてを」という言葉で始まるこの詩は、若い頃に身勝手で愚かな恋をした私の心を抉りました。「エンプティチェア」と同じく取り返しのつかない過ちに関する後悔。考えても仕方がないことを、それでも考えてしまう。その苦悩が詩という結晶になる。

「出奔」

この詩も文学極道で2020年11月の月間優良作品に選ばれました。ただし「エンプティチェア」と違ってかなり加筆修正されています。清々しい1日の始まり。彼らは世界へと歩き出します。夜になって眠りについても彼らの歩みは終わりません。夢の中では四季の中を歩き続けます。「二人は旅人」と表現されていますがタイトルは「出奔」です。彼らは旅人であると同時に逃亡者でもあるのかも知れません。「二人は夢をみる 大抵は悪夢を/でも ときおり 美しいものがちらりと見えたりするのだ」。我々が常に心の中で抱いている「生きることに意味はあるのか」という疑問への答えがここにあるのではないでしょうか。

「あなたを読む」

この詩には他者を、そして世界を理解するためのヒントが書かれているのかも知れません。「スカートの中で猫を飼う/収穫の秋には子供を産む/あなたによく似た子供を」。この詩における「あなた」は語り手にとって大切な人であると同時に、世界であり人の歴史のものであるのかも知れません。そんなことを考えてしまうほどの壮大さを感じました。

「さようなら子供たち」

この詩は何を表現しているのでしょうか。原発事故なのか、それとも今も世界中で続いている戦争のことなのか。あるいは少子化とその要因について語られているのかも知れません。「我々は逃げ場のない場所から/さらに逃げてゆくのだ」という言葉からは怒りと焦燥感が滲み出ているように思います。

「また会おうね」

この詩の原型となる短詩は、まず2023年1月3日に1953年の映画「ひろしま」の写真と共にTwitter(あくまでも「Twitterです」!!!!)で発表されました。その後、これもTwitterで開催された「一かけらの今」「詩の投稿コンテスト」において修正を加えたものが第9回の大賞に選ばれました。今回、詩集に収録された作品はさらに加筆修正されています。戦争で失われた多くの命、特に子どもたちに対して「春になったらまた会おうね」と再会の約束をする。それは安っぽいセンチメンタリズムなどではなく、残された者の決意でもあるのだと思います。

「歳月」

「死んだ父が縁側で煙草を吸う夜明け/私と犬であるお前は布団から這い出し散歩にでかける」という冒頭部分のフレーズは、その原型が短詩として2021年9月25日にTwitterで発表されています。愛犬との早朝散歩に絡めて亡き父のことを綴った詩。作者は父親のことを「かわいそうな人だったと思う。」と言います。決して不仲ではなかったが、色々と複雑な事情があるのでしょう。最後は「散歩から帰る頃には父の姿はない」で締めくくられています。毎朝繰り返される、束の間の回想。それは自分の老いを見つめる行為でもあるのではないかと思いました。

「夜の火事」

この詩は2022年のココア共和国7月号に掲載されました。2021年12月5日、滝本さんはTwitterで隣家の失火により自宅が全焼したことを報告します。この火事に関するツイートはいくつもあり、それは今も続いています。滝本さんはこの火事でほとんど全てのものを失ってしまいました。その中にはご家族との写真や詩集を含む書籍、それに詩のアイデアを書き留めたノートや様々な思い出の品も含まれていたそうです。幸い、写真の一部はパソコンの中やすでに独立している息子さんたちの手元に残っていたそうです。それでも失ったものはあまりにも多く、大きかったようです。「善悪を無視して火はいつまでも燃え続けた」という言葉からもわかるように、災厄は圧倒的な暴力として襲ってきます。その前で人はあまりにも無力であるという現実を、詩人は客観的な視点で描いています。

「わたし・わたし」

詩集の最後で、作者はこれまでの人生を振り返ります。愛犬との日々、幼い頃の記憶、父や母や祖母との関係、そして妻と息子たちや孫たちのこと。過去を語り、現在を語り、そして未来を語る。「わたしは風の中で生きよう/わたしの気持ちなどもうどうでもよいのだ/替えに背を押され歩いて行く」。決して絶望ではなく、高尚な悟りでもない穏やかな境地です。詩人・滝本政博はこれからも歩き続けていくのです。

以上、相変わらず適当な感じではありますが作品を読んで思ったことを書いてみました。繰り返しますが批評ではなく個人的な感想ですからね! 色々とツッコミどころはあると思いますが追求しないように!!

最後に、このような素晴らしい詩集を送ってくださった滝本さんに心から感謝いたします。本当にありがとうございました。

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