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「しとたんかとはいく」感想

2023年の秋に発行された「しとたんかとはいく」という、文字通り詩と短歌と俳句のアンソロジーに参加させていただきました。遅くなりましたが収録作品について個人的な感想を書いてみたいと思います。いいですか、あくまでも「個人的な感想」です。「的外れ」とか「しょぼい」とか言わないように。押すなよ! 絶対に押すなよ!! ちなみに各作品はタイトルの通り詩、短歌、俳句の順に収録されています。なお文中は敬称略です。

★詩★


しせいそうせし「私が見たのは景色だった」

父親の自殺について書かれた詩。「父が元・人間、現・残骸として病院のベッドに横たわっていた空間。」。壮絶な光景が淡々と書かれていることで、逆に語り手が深く傷ついてボロボロになっている様子が伝わってきます。もしかしたら悲しみが大きすぎて感覚がマヒしてしまい、自分自身の痛みを感じることができていないのかも知れません。「残されたものはただその現象とだけ向き合うことになる。」からの「今でも良い音楽を聴くと父に電話しようとしてしまう/そして嗚呼、もういないわという普通に続く。」が喪失のリアルを読む者に突きつけてきます。私は常に自死の誘惑と戦っている立場の人間ですが、この詩を読んで「ああ、やはり家族のために踏み止まろう」という思いを強くしました。最後の「ただ、そうであるだけの事が、私には時々重い。」まで試合開始直後にいきなり強烈なパンチを喰らってダウンさせられた気分です。

日美香「矛盾を愛す」

「叱りながらカレーを作ってるママ/雨の日のサンダル/こたつのアイスクリーム」(愛すだけに)といった「矛盾」を並べていくことで人生の不条理を描く詩です。「死にたくねえ死にたくねえと言いながら/三途の川に向かって歩むのだ」というラストに深く頷いてしまいました。しかし作者はそんな矛盾を愛しているように思えます。矛盾する世界だからこそ、絶望の向こうに希望があるのではないでしょうか。

三上陽子「オレンジ色の部屋」

ガストン・ルルーの古典的推理小説で「黄色い部屋の秘密」という作品があります。江戸川乱歩には「赤い部屋」という短編。「白い部屋のふたり」は山岸凉子の少女マンガ。推理作家でシャンソン歌手だった戸川昌子がかつて経営していたシャンソニエサロンの名前が「青い部屋」。ひとつの色に染められた部屋というのはとても印象的なものです。オレンジ色の部屋というのは、やっぱり寂しがり屋な人が住むのに相応しい気がします。その部屋に深夜訪れる謎の存在。明らかに人ではないその「もやもや」に名前をつけてほしいと言われた語り手がそうすると、その日から「もやもや」は部屋に来なくなる。「もやもや」の正体は何だったのか。なぜ名前をつけたら来なくなったのか。個人的には「名前をつける」という行為が自分自身の悩みを自覚したり、認めたくない愚かさや弱さを認めて受け入れることを現しているような気がしました。不思議な、そして何とも言えない余韻が残る詩です。

夢沢那智「十一月の牢獄」

あ、私の詩だ。これはねぇ、もう好きに解釈してほしいです。自分としては日本で、いや世界中で今も様々な形で続いている子どもたちの受難についてあーだこーだみたいな感じで書いた気がします。まあ無意識の産物なので確証は無いですけど。以上。

よしおかさくら「羽ペン」

「飛ばない夜は翼の手入れをしてもらう/浴室に幼馴染を引っ張り込む」という、ちょっとアダルトなフレーズで始まる詩。これはもう読み手の人生とか品性とかによって解釈が自在に変化する詩だと思います。汚れなき眼で読むも良し、大人の恋愛を描いたものとして読むも良し、という感じですね。「長い間天使の仕事はしていない」という最終行が最高にカッコいいです。

南雲安晴「新しいベタ」

これはもうタイトルの時点で注目ですよね。「新しいベタ」。明らかに矛盾した表現ですよね。「なにごとにもベタな要素が少しなければ/世の中では通じないと考えながら/新しいものを望んで朝早く家を出る」。何というか、世間とか人生に関して達観した風でありながら、それでも理想を求めてしまう若者特有のジレンマを感じてしまうのです。最終連の「熟れている果実は絶対新しい/でも何かベタな要素を持っているからこそ/きれいに揃った果実なのだ」というという表現に、語り手の純粋さが表れているように思います。

ねむみ すや「白い秋」

「とてもとても真っ白で/瞳も蹄もたてがみも尻尾も真っ白で/ほんとうに綺麗」で始まる幻想的な詩。去年、1日だけ秋の中にできた冬。その美しさと喜びが読み手にも伝わってきます。雪の象徴としての白馬、あるいはそれに似た獣の描写からも、語り手がすべての季節を愛おしく思っていることが伝わってきます。それはこの世界そのものへの愛とも言えるのではないでしょうか。

モリマサ公「赤だんごむし 黄ザリガニ オレンジトローチ」

おじさん昭和の人なんでねぇ、こういうタイトルを見ると全盛期の大島弓子のマンガとか思い出しちゃうわけですよ。1人の人間の中にある「心」という広大な迷宮を彷徨うな気分になります。「ピカピカに青春の磨き込まれたリノリウムの床/逃げ水を追いたくてももう追えない季節が来た」みたいなフレーズに翻弄されて、「あー、分かる気がする」と「え、何を言ってるの?」の間を行ったり来たりしていると最後に母が泣いちゃうわけですよ。これ、けっこうキツい現実の象徴として読みました。大島弓子の「バナナブレッドのプディング」でも、主人公の少女は精神的にとても不安定で両親は精神鑑定を受けさせようかと考えるくらいなんですよ。特に母親は娘が心配すぎて常にオロオロしている状態。別に誰も悪くないし、憎み合っているわけでもないのに母親が泣く。じゃあ語り手はどうすれば良いのか。親を心配させないために普通の子を演じて生きていくのか、それとも思い切ってこの世とサヨナラしちゃうのか。あるいは何か他に道があるのか。生きるということのしんどさや理不尽さなどについて考えさせられる詩でした。うん、明らかに変な読み方してるなワタシ。だが許せ。これが詩を読むということじゃ(開き直り

有明「あき」

「むしパンのようなほくほくのほっぺは/あかいろのソプラノ・アコーディオンをひっぱった」という素敵なフレーズで始まる詩。タイトル通り秋を描写しているんですが、どう考えてもちょっとエロティックな内容に思えます。秋という季節の寂しさや儚さが匂ってくるような詩だと思いました。

クヮン ・アイ・ユウ「盛夏」

こちらは夏の詩です。「一海に匹敵する蝉の声」という実に巧みで魅力的な描写から始まるこの詩の一連目は、漢詩のような品格を備えています。個人的にこの作品の中で重要なのは「その季節を/明るく迎える者とそうではない者が居る/どの季節も どの日々も/元来 それがことわり」という連ではないかと思うんですよね。この世界をスライスしたどの断片でも、不幸な人と幸せな人がいる。どちらか一方になることはない。夏という季節ひとつ取っても、それは命あふれる時間であると同時に死をもたらす時間でもある。とてもスケールの大きい詩だと思います。

エキノコックス「ナニカ」

単語の選択も各フレーズも、良い意味でラブソングの歌詞のような内容だと感じました。過ぎていく日々、仲間たちとの関係、そして君と僕のこと。過ぎていく毎日と、繰り返される夜。信号に従う人生。ラストの「その昔/パンゲアだったね/ひとつだったよね」が、たまらなく切ない。おじさんね、こういうのに弱いんです。マジで。

久納美輝「地下水脈」

「風は還ることはなく/手に掬ふこともできない」という魅力的なフレーズから始まる詩。続く「公園の欅のかげに吐く」で一瞬「お、サルトルか?  ロカンタンか!?」とか考えたけど気のせいかも知れません(無学の限界)。この詩は初連で「なく」と「吐く」、「できない」と「液体」、2連目の「眺め」と「なだめ」、「震ふ」と「狂ふ」、そして3連と最終連はそれぞれ「鉄塔」と「窃盗」、「痛手」と「下で」、「取る」と「乗る」といった調子で実に計算された押韻が埋め込んであります。これによって意識しなくても読み手は一定のリズムを感じ取ることができるのです。全体的に秋の終わりの情景を描きつつ、「地下水脈」というタイトルや「暗渠の流れに乗る」という最後から自らの思索へと沈潜していく語り手の知性が感じられます。


★短歌★


三上陽子「ダッフルコート」

「この秋にはじめてダッフルコート着てプラネタリウム行きのバス待ち」からスタートします。ダッフルコートはトルコの民族衣装からスタートしているらしいですが、イギリス海軍の防寒着として採用されて戦後に世界へ広まったそうです。トレンチコートもそうですが、ファッションというのはけっこう戦争がきっかけで始まったり広まったりしたものがあります。軍服は防寒性や機能性などを追求されるものなので当然なのかも知れません。これはまったくの偶然だとは思いますが、今回の作品の中に「キッチンでニュース見ながら蕪を煮たハルキウに響く無伴奏チェロ組曲」が入っていることを含めて、過去や現在進行形の戦争がそれぞれ自分たちの日常と繋がっているという現実を改めて感じました。どれも印象に残る作品ばかりですが、個人的にはダッフルコートとハルキウの歌の他に「何してもうまくいかない夜がきて何度も読んだ本を手に取る」「花の名をひとつ覚えていく毎に握りしめていたものを手放す」が特に印象的でした。

よしおかさくら「口約束」

よしおか氏の短歌は技巧的な余裕を感じさせるユーモアが感じられるものが多く、読んでいて楽しくなります。「相槌の長く続けば聞き違ううむうむらうとうむうむらうと」「つつもたせおこわこわいいもたされておおこわおこわおこわおおこわ」などは思わずクスリと笑ってしまいますが、これらは「ウムラウト」「強飯」などを知らないと面白味が理解できないわけで読み手にも一定の教養が求められます。さらにユーモアの中に風刺や寂しさといった感情もさり気なく溶け込んでいる。これも、よしおかさくらという歌人の魅力のひとつだと思います。『またの世「も」「は」と口約束の人もいてきっと来世は孤独がないの』。来世でも、この人の歌を楽しみたいと感じました。

モリマサ公「テレパシー」

この作者は短歌という枠に収まりきらないほど柔軟な発想の持ち主だと思います。「晴れの日のメメントモリは雪合戦断頭台に当たる一発」とか出てくる歌人、そうそういないんじゃないかな。時空も常識も飛び越えた歌は年寄りの頭を揉みほぐして柔軟にしてくれるような気がします。「また明日 アクセルを踏む戸川純熱唱しつつ環八を右」はどの曲を歌っているんだろう。「好き好き大好き」か、やっぱりドライブということで「バーバラ・セクサロイド」か。

桑井ゆた「かりそめのてんごく」

すべての歌の根底に若さが漲っていると思いました。「sugarよりcigarをちょうだい。そのかわりに何かあげるよ何もないけど」とか妙に分別がついてくると絶対に作れない気がします(気がするだけかよ)。実際にどうかは別として全体的に即興性が感じられます。「ここにいるわたし。ここにいないわたし。にげる。はしる。ここはアメ村。」とかスピード感とセンスがある。「ネクタイに時間がかかる。ワイシャツの背中に汗が滲んでるのに。」の焦燥感とか実にリアルで私的には「あるある」な歌でした。

長村聡倫「イマジナリー季節感+」

「解って欲しいと信号する演算回路言葉の照明公理とした」「高電圧耐張碍子冷たいとかじゃない後の傾向と対策のためだ」など、理系的な言葉選びの歌が多く正直戸惑いました。その一方で「表面だけ乾いて硬くなっている白いご飯を一人で食べる」みたいに一読したところ「分かりやすい」と感じる作品が入っていたり、良い意味で掴み所がないと感じました。両者のバランスが一番取れているのは「漸近の双曲線が描く夜止むに止まれぬ秋の長雨」ではないでしょうか。

久納美輝「瑠璃色の砒素」

久納氏の歌は正統派と言える構造の中にしなやかさがあり、読んでいると乾いた砂が水を吸い込むように心の中へ吸収されていく気がします。「サファイアを眼から外して空に消ゆるつばめとならん美月のために」はもちろんオスカー・ワイルドの「幸福な王子」(ちなみに私が子どもの頃に読んだ本では「幸福の王子」でした)なわけですが、物語を知っている者なら視覚的なものだけでなく精神的な美しさも感じることができると思います。今回の歌には「美月」が出てくる歌が複数あり、作者は山下美月のファンなのかなと感じました(何で彼女に限定するんだよ絶対ちげーよ)。「愛すとは傷つけること寝静まる森に研ぎをり半月刀」「ながらへて輝く石になりうるか冬の間近の枯れ枝に問ふ」など、物語性に満ちていて実に魅力的です。


★俳句★


日美香「コスモス婚」

コスモス(秋桜)をテーマにした句。「コスモスのモスのところにハンバーガー」「コスモスのはなびら占いはキライ」のようにダジャレや「それはそうだよね」的な句もあれば「疚しさは優しさになる秋桜」のようにちょっと考えてしまうものもあります。タイトルからわかるように基本的に恋や結婚がテーマのものが多いのですが、中には実らなかった恋もあるようです。「旅の果てコスモス街道は西へ」は世代的に狩人の「コスモス街道」とか連想してしまいます(多分違います)。テーマのせいもありますが全体的に華やかな印象となりました。

モリマサ公「世界の終わり」

「首都高速は折れて壊滅星月夜」「建物が崩壊してる流れ星」など、文字通り大災害などで滅びた後の世界を俳句で表現するという試み。ふと、「現実に人類が衰退しても詩歌は残り続けるのか」ということを考えました。

モリマサ公「24時間テレビ」

え? どこが24時間テレビなの? ごめん意味わかんないです。でも「携帯は消毒薬の匂いして」とか「食パンが話しかけてくる冬の朝」は不思議と心に残りました。これが創作の力か!

よしおかさくら「夏の飯テロ」

SNSの飯テロをメインに俳句による飯テロてんこ盛りです。そんな中に「晩夏光緑色して食卓は」を入れてくる作者のセンスよ。「Tシャツの白アラビアータの赤」。カレーうどんを食べる時には気を付けたいですね(そういう話じゃねぇ

久納美輝「葛の性」

俳句という極限まで字数制限されたジャンルにも関わらず、実に伸び伸びと表現しています。「秋声と誤変換する午後の事務」は多分「修正」の誤変換を扱ったものなんだろうけど、それを利用して季語を配置する狡猾さに痺れました(言い方)。「夕まぐれ唾まみれのリコーダー」とか読み方によっては大変に変態な感じなのでインパクト大です。そんな流れからラストの「集会所のフェンスに絡む葛の性」で着地させるのは見事。

以上、つれづれなるままに、日暮らし硯に向かひて書いてみましたよ。最初に書いたとおりこの感想はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません(書いてません

最後に、こんなに優れた表現者の皆さんによる「しとたんかとはいく」に参加させていただいたことを心から感謝いたします。

#詩 #短歌 #俳句 #しとたんかとはいく

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