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佳作の女

 そうだ喜多屋旅館に行こう。それまでは思い出すこともなかったのに、そう決めた途端、心が浮き立った。
 三年ぶりの喜多屋旅館は、あのときと何も変わっていなかった。思い出の中で美化され過ぎてこんなものかと落胆するかと思ったのに、そんなことはなかった。たくさんの照明に輝くエントランスは、むしろ三年前よりも輝きを増して見えた。
 大きすぎるふかふかのベッドで微睡んだあと、温泉で旅の疲れを癒やす。夕食の時間まではまだ少しあるので、本がたくさん並んでいるロビーに腰を下ろした途端、記憶が蘇った。そう、あのときもこのソファに座った。 
 三年前、喜多屋旅館が主催する短編の文学賞に応募した。結果は佳作だった。二千字の為に、一ヶ月間毎日パソコンと睨めっこして、結果は佳作。二十歳の学生の頃から十年間、毎日のように書き続けた。仕事が忙しい日も、パソコンを立ち上げて一行は書いた。飲み会で散々酔っ払った後も書いた。数え切れないほどの文学賞に応募した。二十一歳の頃応募した短編が佳作に入賞したことで調子に乗っていた。でも、その後は一次選考すら通らなかった。それでも書いた。私にはこれしかないと思ったから。事務の仕事は退屈で、何のやりがいも感じ無かった。
 十年間頑張っても佳作止まり。結局何も変わらなかった。
 私の中の緊張の糸が解けた。作家になる夢は諦めようと思った。最後の記念に喜多屋旅館に泊まることにした。大賞を受賞すれば無料で泊まれたホテル。私の安月給から考えると痛い出費だったけれど、夢を諦める代金と考えれば悪くない。
 温泉に入って、好きな日本酒を飲んで、食べたい料理をたらふく食べたら、きっぱりと諦めがついた。十年間、十分頑張った。悔いはない。これからは今までやれなかったことをやろう。行ってみたい場所に旅行したり、習い事をしてみたり、恋をしたり。退屈な事務の仕事を辞めて新しい仕事にチャレンジしてみるのもいいかもしれない。
 書く事を止めてからの三年間、その全てをやった。台湾に行って台湾料理を思う存分食べた。事務の仕事を辞めて営業の仕事に転職した。既婚者の上司と不倫もしてみた。たくさん笑って泣いて、1年で別れた。料理教室にも通ってみた。参加者の穏やかな男性と付き合ってみた。1年付き合ったけれど何だか退屈な気がして別れを切り出した。
 そして、今。やりたいことをやった三年間は楽しかった。楽しかったけれど、いつもどこか物足りなかった。
 ロビーのふかふかのソファから手に届く位置にある本棚に手を伸ばす。何気なく取った本をパラパラと捲る。この三年間は小説もろくに読んでいなかった。
 本を棚に戻すと、見覚えのある紫色の表紙が目に入った。手に取り、開く。ああそうだった。何となく開いたページがそのページだった。癖のある丸文字。無念。所詮私は佳作の女。峰山京子。無念の字の歪みに、本当に無念さが漂ってくるようだった。このノートは、喜多屋旅館ノート。宿泊者がそのときの思いを自由に書き留めることのできる、観光地によく置いてあるあのノートだ。温泉に浸かって、お酒を散々飲んで、酔っ払った勢いで書いたのだった。
 その私の文章に、コメントするように見覚えのない文章が書き加えられていた。
 作品読みました。素敵な作品でした。佳作なんてすごい。私もいつか佳作取りたいです。平恵里菜。
 驚いた。まさか作品の感想がこんな所で読めるとは。この平さんという人も書く人なのだろうか。
 しばらくぼんやりとしてから、ふかふかのソファから立ち上がった。
 部屋には夕食前に飲もうと買いこんでおいたとびきりの日本酒が用意してある。
 部屋に戻る途中、廊下の壁に貼ってある膨大な文字たちに気付いて足を止めた。第5回喜多屋文学賞。私が第2回目に応募していた文学賞は、今回で5回目を迎えていた。その入選作が壁に貼り出されているのだ。3年前は佳作を取った私の作品も貼り出されていた。
 何気なく眺めながら歩くと、見覚えのある名前が目に飛び込んできた。
 佳作。流線型の雪。平恵里菜。
 旅館ノートでコメントをくれた人だった。気が付くと私の目は本文を追っていた。一文字一文字を夢中で読む。
 何ていい文章だろう。素直にそう思った。大賞とか佳作とか関係ない。それは、とても良い文章だった。胸に響く、いい文章だった。
 三年間、胸につかえていた思いが解けていく。
 売店で買い物をし、部屋に戻った。
 一人で泊まるには広すぎる部屋。大きなテーブルに置かれた日本酒をおしのけ、私は売店で買ったばかりのノートを広げ、ボールペンを握りしめた。しっくりくるこの感じ。
 無性に書きたい気分だった。書きたい。その思いが私の中に溢れかえっていた。そのことに気付いた。書きたいことはたくさんあった。だって三年間、何も書いていなかったのだ。
 逸る気持ちを抑えながら、私はノートに一文字目を書き付けた。

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