おふるの勉強机が世界だったという話

2月、3月は電車やカフェで何かしらの単語帳を見る制服姿の人間がよく目に留まる。
受験シーズン、懐かしい。あんなに目標を立ててひたすら勉強するのは18の頃を逃せばもうないと思う。
(私は大学生になってから目標が明確じゃないぶれぶれのまま走って、燃え尽き症候群になった)

小学4年生のころに簡単な日記(原稿用紙のノートに1ページ以上は書くという宿題)
を課せられていた。
先生が気に入ったり良いと思ったものは配布されるクラス通信に載せてくれる。
読書感想文が毎年表彰されていた子はほとんど毎日、先生も先生なのでもちろん他の子も紹介する。
そのクラス通信に載った文章を思い出しながらリメイクしてみようと今に至る。
それは、「作文が思いつかないので、目の前にあるものを書いてみる。」というような文章から始まる。
「目の前には私の机がある。これはお父さんが使っていたおふるの勉強机だ」
「私は友達の家でみた、つやつやしていて色の薄い勉強机にとても憧れているが、お父さんからもらった机も思いれがあるから大事にしていこうと思う」

といった内容の作文だったと思う。
それがクラス通信に載りお父さんが読んで「ちょっと感動した」と言ってくれたことを今でも覚えている。


どうしてこんな話をしたのかと言うと冒頭の受験シーズンの話に戻る。
私はカフェや図書館で勉強するのが苦手だ。
その理由としてまず、人の目が気になる。
数式が入ってこない。たくさん消しゴムを使ってしまう。
学校とは違う、「勉強していない人もいるのに自分だけが勉強している」という場所に身を置くのは抵抗がある。教室の、勉強していて普通、というのが通じない。
音も気になる。ヒソヒソされると自分かなぁと思うことがあるし、カフェであれば客の回り具合も気になる。カフェはゆったり過ごす場ではあるが居座る場所ではない。
(ちなみに高校生の頃以上に、 大学生になってからはアルバイトを通して態度の悪い客には態度の悪い店員が生まれるということを身に染みて感じた)

だから私は部屋の勉強机が1番集中できた。
慣れたものに囲まれ誰も邪魔されず、リビングでは親やテレビの声がするいい雑音。
ぴかぴかの薄い色をした机では無く、機能性など考えられていなさそうな、高級な木を使ったであろう茶色い木目が真っ黒の机。
しかも重いし、椅子の高さも変わらないため座布団で調節していた。
人間工学など考えられておらず椅子も木のため、課題が終わって伸びをすると関節が鳴るくらい凝り固まってしまう。
そんな机が私を構成する世界だった。
私の素の字はここから生まれ、部紙の絵はここから生まれ、大学受験のための学力はここから生まれている。
特に机の上の本棚は左から背の高い教科書、真ん中はA 5サイズを中心とした単語帳や辞書、右は幼馴染からもらったケーキの形をしたかわいい陶器やデッサンに使ったもう使えない鉛筆を瓶詰めしたもの、友達のイラスト、夏祭りで救ったスーパーボールなどを置いていた。

勉強というより世界。
自分だけの世界観というのはここから生まれている。よく考えれば誰しもがそうだと思う。

大学の先生の部屋を回って課題をこなしていた時に、先生の机は人それぞれで個性が溢れていた。
整理整頓された机、乱雑に本が積み重なっている机、フィギュアがたくさん置いてある机。
机を見るだけで人柄がわかるようなそんな人になりたいななんて思った。


もう短すぎて使えなくなった鉛筆の墓場

小さくなった鉛筆が捨てられないのは小学生一年生の頃に読んだ『えんぴつびな』が印象的だからなのだと思う。


#学問への愛を語ろう

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?