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わたしの文章は素直じゃない

わたしは自分のことを文章にするのが好きだ。だから、noteを書いている。小説とか詩も好きだけど、やっぱり自分のことを書こう!となる。

さっき、パートナーと一緒に作った本が到着した。SNSで宣伝しまくっているが、ポリアモリーとモノアモリー、つまり、わたしとパートナーについての本だ。

これも自分たちのことを、素直に生々しく書いたもので、本当に嘘偽りなく、思っていることを書いている。そもそも、偽る理由がないのだけど。

今回、素直な文章を書けたのは、パートナーの影響が大きい。会話をするように書いた部分が多いので、普段と変わらない感覚で言葉にできたと感じる。

「素直に書いた」と感じるのは、いつも自分だけで書いている文章に違和感を持ち始めたからだろう。

今まで書いてきた文章は「綺麗過ぎる」のではないかと思い始めたのだ。
それは、「まとまりがある」とか「完璧過ぎる」とか、「隙がないように見える」とも言える。

人は矛盾しているもので、綺麗に物事を真っ直ぐ考えることはできない。理屈と感覚は、全く別のものだ。相反することはよくあると思う。

しかし、わたしの今までの文章は綺麗にまとまっている。「これはこうだから、こうなります」という筋の通った内容しか書いていない。

そうじゃないところもあるのかもしれないが、だいたいはまとまったものになっている。

「まとまっているのは、いいことでは?」と思う人もいるだろう。確かに悪いことではない。ただ、素直な文章かと考えると、そうではない。

わたしは素直な文章を書いていない。なのに、「素直に書いている」と思っていたのだ。パートナーと文章を書いて、それに気づいた。

「これが素直なわたしの全て」というふうに思って書いていたが、全然そんなことはなくて、わたしの一面、一部分を都合良く切り貼りして見せている。だからこそ、綺麗な結末に持っていけるし、筋の通った隙のないような文章にできる。

これは良いか悪いかという問題ではないし、書いているわたしが好きにすればいいとは思うのだけど、無自覚にこういうことをしていたという事実にびっくりしている。

わたしも不完全な存在だから、わたしが生み出すものも、そうであるということを忘れていた。気づいたからと言ってやめるわけではないけれど、文章を書きながら、自分の矛盾や不完全さを頭の隅に置くのと、置かないのとでは、書くことが変わってくると思う。

わたしは完璧ではない。だけど、まるで完璧であるかのように書いてしまう。それは、自分を良く見せようとしたり、読み手から反論されないようにしているからだと思う。

これからも文章は書く。素直になれるときも、なれないときもあるだろう。とは言え、どちらもわたしの文章だ。

素直に書くのが正しいわけじゃない。ただ、「わたしは完璧だ」と思ってしまうと、いろんな可能性を見失ってしまう気がする。だから、できるだけ「わたしは完璧ではない」ということを頭に置いて書きたいと思う。

完璧ではないから、違う意見や考えの人がいてもおかしくないし、間違えることもある。わたしが書いていることは全てではないし、正しいわけでもない。

これから文章を書くときは、このことを忘れないように気をつけたい。それが、わたしなりの「素直さ」なのかもしれない。


パートナーと書いた文章を本にしました。ネットで販売しています。在庫わずかです。

また、この本の第二弾として、増補版を作りました。「ポリアモリーとモノガミーの交換日記」の内容に対談などをプラスした本です。

こちらは、文学フリマ大阪11にて販売し、その後、ネットでも販売する予定となります。
「ポリアモリーとモノガミーの交換日記」も文学フリマに持って行きます。

文学フリマとは
出店者が「自分が〈文学〉と信じるもの」を自らの手で販売します。

その他にも、わたしが風俗嬢だった頃の写真と風俗への思いを書いた文章が載っている本、パートナーが描いた四コマ漫画などを持って行きます。

ブースは【  うにゃむにゃ⠀L-23  】です。

ぜひ、文学フリマ大阪にお越しください。お会いできるのを楽しみにしております。

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