見出し画像

なくもんか。

近くの山の上のほう、白くもやがかかってる。
雲が垂れてきてるのか、それとも上がっていくところだろうか。

霧雨の中、そんな山を見ながら歩く。
大股で歩く。
雨はとても柔らかく、傘はささずにそのまま歩く。

山を見ながら歩くから、顔が少し上向いている。

上向いたまま大股で歩く。


小学2年のある日のこと。

帰りの会が終わったあと、おじいちゃん先生が、もう一度私たちを座らせた。
もうすぐ開催されるクラス対抗のドッジボール大会に向けて、作戦会議をしようと言うのだ。

窓側から2列目、前からは5番目くらいだっただろうか。
再び席に座り直した私は、ふと洩らした。

「早く帰りたいな……」

とても小さな声で、ひと言だけ。

瞬間、おじいちゃん先生がキッとこっちを睨んだ。

「こっちへ来なさい!」

ピッと体が固まって、私は黙って首を横に振った。

そうしたら、先生がこっちへ来た。
大きな体が近づいてくる。

固まったままその巨体を見上げようとした時、右頬をギュッとつままれ、左頬をバチンと叩かれた。

シーンと静まる教室。

「みんなで頑張ろうとしている時に」
とかなんとか、そんなことを先生が言った。

私は目を見開いたまま、泣かずに耐えた。そして、ゆっくり教室を、みんなの方を見渡した。
後ろの席の女の子が震えていた。

そのあとの作戦会議のことは覚えていない。1ミリも。

いつものように陽子ちゃんと下駄箱へ向かう。
陽子ちゃんは「びっくりしたね」とも「痛かった?」とも聞いてこなかったから、私もそのことには触れず、他愛もない話をした。

帰り道もいつものとおり。

ほんとは会話が浮ついて、私の気持ちもどこかふわふわしていた。
その逆かも知れない。ずっと緊張が解けないでいたような気もする。

文字通り角にある、駄菓子屋の『かど屋』さんを過ぎると、わかれ道に差しかかる。
陽子ちゃんは団地がある左の方へ、私は右へ、バイバイをして別れた。

そのあとの細道、私はまっすぐ歩いた。
顔は少し上向きに、ずんずんずんと大股で。

「ただいま」

母にもその日のことは話さなかった。

そして、後ろの席のあの子は、次の日から来なくなった。


昔、触ると閉じる葉っぱがあって、よく触って遊んでいた。
霧雨の中、似たような葉っぱを見つけたからやさしく撫でてみたけど、なんだ、全然閉じないな。
違う葉っぱなんだろう。
指先がちょっと濡れた。

今日の雨は、ミストローションのように柔らかい。
花壇の水仙もようやく咲いた。

花もつぼみも大きい


あの時以来、誰かに頬をたれたことは、一度もない。

この記事が参加している募集

雨の日をたのしく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?