自分の人生を生きるということ

いや、本当にnoteを書く時間がないのである。

休校期間中はあんなに毎日、それこそ1日2本くらい書く時間があったのに、今や1週間に1本の記事を書くのがやっとというような、そんな状況です。結構キツいぞ、毎日(笑 世の中のバリバリ働きながら、ガシガシnoteを更新している人たちは本当にすごいと思う。(ただし、そうなりたいと思うかと言われると、それはまた別だが)

ただ、キツいのは生徒諸君も同じだと思うので、僕も負けないように頑張りたい。共に頑張ろう。

しかし、noteだけじゃなくSNSをあんなに見る暇があったころは、自分で余計な情報にアクセスして嫌な気分になったり傷ついたりしていたような気がする。

自分の好きな情報にアクセスしても、そこに付いたマイナスコメントに腹を立てたり、モヤモヤしたりという経験をしたことがある人は、結構多いと思う。

SNSを見ていると本当に他人は充実した人生を送っている。

結婚して子供が生まれただの、難しい資格の試験に合格しただの、海外旅行に行っただのなんだのかんだのいろいろ書かれている。そしてそれを見て羨んだり、蔑んだりなどと様々な感情を持つ。よくよく考えると、それはその人たちの人生なのであって、僕の人生とは全く違う。その人たちの人生に一喜一憂させられている僕は、全く自分の人生を生きていないことになる。

だからこそ、そういうモノにとらわれたりせず自分のことに邁進している方がよほど自分の人生を生きていることになるのではないだろうか。

教師というのはすごく特殊で、「他人のことを四六時中考える」という使命、もっと言うと「他人の人生を生きる」ことを宿命づけられている。

でも、それはよくよく考えてみるとどの仕事でも結構そういう部分がある。基本的に、仕事は他人のために汗水を流した代価として金銭を受け取るという仕組みだ。

翻って、学生・児童・生徒というのはとても自分の人生を生きやすい存在だ。自分のことだけ考えて生活していても、急に路頭に迷ったりするということは考えにくい。

それなのに周りの視線ばかりを気にして、「他人の人生」を生きてしまっている人の多いこと多いこと。もったいない。社会に出たら自ずと他人の人生を生きる羽目になるのだから、今のうちはしっかりと自分のことを考えればいいのにと思う。

もちろん人の苦しいや痛みを想像することは必要だよ?
だけど、何もそんなに「他人の理想」としての自分を作り上げなくてもよくない?

自分の胸に聞いてごらん?
君のこころは輝いてるかい?Yesと答えるかな?(やかましい

当たり前のこととして自分人生を生きる過程で、極力人に迷惑をかけてないようにしなくてはいけない。だけど出来る限り最大限に、自分の人生を生きて欲しいなって思う。


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