見出し画像

10年前の私は・・・。

3.11を思い起こす辛さ

数日前から10年前の3.11の震災の映像が流れています。
私の地域では停電や近所で瓦が崩れるなどはあったもののそれほどの被害にはあってはいません、それでもテレビから流れる当時の状況を目にすると鼓動が早くなるような思いがよみがえってきます。

その時はまだ、主人が生きて居て
たまたま近所に住んでいた娘と生後6か月の次男の孫と遅い昼食をとっていました。午後2時半頃洗濯物をしまうために娘と孫が車で自宅に戻った直後前触れもなく大きな地響きとともに揺れを感じました。

揺れがおさまるのを待っていてもどんどん強くなるばかり
「お父さん!おっきいよ!」
夫を探しました
「どこに居るの!」
「ここだぁ!」
周りに摑まりながら声のする建物の裏に回ると倒れそうになっている機械を押さえていました。
「どうしよう!たーくん!どうしよう!」
さっき車で出た娘と孫の事で頭がパニックになっていました。
娘の自宅は築4~50年の古いアパート裏は崖っぷち
悪い想像が頭をよぎりました。
夫はすぐさま車で向かいました。
その後も何度も何度も地響きを鳴らしながら大きな揺れが来ていました。

何度も夫と娘に電話をかけてもつながる事はありませんでした。
ふと、ゆーくん!迎えに行かなきゃ
保育園に行っている2歳の娘の長男のゆーくん
行かなきゃ!行かなきゃ!
でも、娘とは電話はつながりませんでした
車のカギを持ち、車で向かいました。途中何度も揺れを感じて心臓の鼓動がバクバクしていました。

保育園に到着すると園庭の真ん中に敷かれたブルーシートに小さな子達が 寄り添うように座っていました。ゆーくんは私が駆け寄って名前を呼ぶと飛びつく様にすがり付いて来ました。その時また、建物がビシビシと音をたてて揺れてきました。「恐わーい!」泣きそうな声で叫ぶ子供達に「大丈夫だからんね!」と先生達が冷静になぐさめていました。
引き取っていく私の名前をノートに書く先生が「ゆーくんおばあちゃんが来良かったね」と言ってくれて無事に家に戻りました。

想像を超えた状況に体の震えが

家に戻ると夫と娘と孫のたーくんが戻って居ました。
娘は崖が危ないと判断して
通りを挟んだお向かいの庭で避難していました。
車で通りすがりの年配のおじさんが「大丈夫?」と声をかけてくれたといいます。その後に夫が到着して、子供達の身の回りの物をかき集めて帰宅したのでした。

テレビで見る情報で東北がとんでもない事になっている状況を知る事になっていくのですが、近所でも被害に遭った話が続々と聞かれてくるのでした。
時間が経つにつれてとてつもなく大きな津波の映像や街並みがすべて流されてガレキの山になってしまった状況に、世の中にこんな事が起きるなんて信じられないと、このような言葉でしか言い表せない自分にもどかしさを感じました。
東北の三陸は子供頃には馴染のある場所でした。
三陸に暮した訳ではないのですが、子供の頃東北に暮らし、海水浴は何時間もかけて三陸の陸前高田に親が連れて行ってくれていました。
家族旅行も無い時代に夏休みに一度だけ行く日帰りの海水浴が私達子供にとって家族旅行でした。食べ物屋さんや海の家が有る訳でもないのでおにぎりやおやつを準備してのお出かけでした。
最後に行ったのが小学校の3年生か4年生の頃だったとおもいます
ホタテを串に刺して味を付けてあるものを父親と食べた思い出があります。
浜の名前の看板の前で撮った色褪せた写真の場所ももう流されてしまったのでしょうね

もう一つの思い出

子供の頃に住み、大人になるまで住んだ場所の方が長くなってしまい
そして今は、結婚して住んだ所が一番長くなってしまいました。
夫は地元で生まれ地元で暮し田舎のある経験はありませんでした。
私と行く東北がとても好きでした。
三陸にも毎年のようにいっていましたし岩手が好きでした。
もう、私よりも地域の事をよく知っていました。
リタイヤ後に住みたいと中古物件を見て回った事もありました。
いつか三陸鉄道に乗ろうといつも思っていても、休みを長く取れなく断念して帰るのでした。
三陸鉄道が運行再開してからはもう少ししたらゆっくりと行こうといつも言っていましたが、実行する事無く一人で遠くに旅立ってしまいました。
無理をしても行っていたらと悔やんでももう行く事は叶いません

10年たっても震災で家族を亡くした人達は気持ちの癒える事は無いと思います。そしてさまざまな後悔や無念を抱えて苦しんでいるとおもいます。
何もできない事に情けなさを感じています。

今度は一人で思いでの旅になると思います。
ですが、まだいけません 弱虫です

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?