あのこは貴族を見て
先日、「あのこは貴族」という作品を見た。
東京に暮らした経験がある人はどこか共感できる作品ではないだろうか?
実際、主人公の華子のような家柄の子と出会い驚いたこともある。
青木のような身分の高い男性で、自然と見下された経験もある。
その際、気分が悪かったが、青木のような家柄に生まれ、
生まれながらの習性と考えると、腑に落ちる。
この作品の良い所は
「誰にも誰かが悪い意味で憧れていない」という事だ。
この作品は、誰かが誰かに悪い意味で憧れたり、妬んだりしてしまったら、悪者が簡単にできてしまい、気分が悪い映画だったかと思うが、みんな、それぞれの生き方を受け入れ、それでも自分はこうしたい。と、自分をしっかり持っている。
自己肯定感が強い人しか出てこない。
一部、「あの子は結婚しないでしょ~」など少し皮肉っぽい会話もあるが、その子らですら、集団で「結婚することが正義」として育てられた階級、環境でその価値観は仕方のないことだと感じる。
この物語、例えば、上京してきたみきが、青木のことを本気で好きで、でも実際は自分はどんなに頑張っても青木とは結婚できない身分で、半年前に出会った華子といとも簡単に結婚してしまう事を僻んでいたら、この映画の雰囲気は大きく変わっていただろう。
きっと
「一般人はどんなに頑張ってもだめなんだ」と
見る者の気分も悪くなっていたし、華子や青木が悪者になってしまう映画になってしまう。
このような構成は、よくあるドラマや恋愛映画である構成だが、この映画はそうではないことが面白い。みきは青木がどのような男か、階級か、理解した上で付き合っている(友人として)、友人といえど、出身地すら聞いてこない青木にとって自分は都合の良い女だという事を理解した上で関係を続けている。
そして、みきにももちろん本気の恋愛感情などはない。
ここで、恋愛感情があったら、この映画の方向は大きく変わっていってしまっただろう。
みき自身も、そういった相手には本気で相手をしていなかったかのように思う。
「自己肯定感」は素晴らしいものだとこの映画をみて感じた。誰かをねたんだり、羨んだりすることは負の連鎖をうむが、この映画は「本当に自分がやりたいこと」「自分自身の芯をしっかりもつ」ことで、それぞれの人生を開花させている。
想像してみて欲しい、この映画で誰かが誰かを妬んだり、羨んでいたら、人生の大切な時間を誰かを憎む時間に大きくさいてしまい、きっと無駄な時間を過ごしていたし、やりたいことすらわからなくなる、探さなくなる人生だったのではないかと。
世の中、理不尽なことはたくさんある。自分が努力の末、手に入れたものを、生まれながらの環境でいとも簡単に手に入れている人もいる。
自分がどんなに頑張っても手に入れることができなかったものを、生まれながらの環境でいとも簡単に手に入れている人もいる。
そういう人に出会ったとき、そういう人がいると知ってしまったとき、
ねたんだり、羨むという感情がいかに無駄なことだと教えてくれる。
私自身も東京にでてきて「出身地も聞いてこない男」という
男に出会ったことはある。
この男は自分を大切にしていない、好きではないという事がすぐ分かり、
会うのをすぐやめ、なんの未練もない。
そのような人のためにエネルギーを使うなら、自分がやりたいことを探した方がよっぽど良い。
私は常日頃、人にはそれぞれの地獄があると思っている。
お金持ちで美人で、家柄が良い男性と結婚していて、
誰もが羨む人でもそれなりに何かに悩んだり、泣いたりする。
そのことを綺麗に描いている映画であった。
どんなに頑張っても華子のような育ちになることにはなれない。
これは努力でなんとかできる領域ではないからだ。
だからこそ人から妬まれ羨まれやすいが、
実はそんな人でも何かに悩み、涙しており、
その人からしたら、一般階級の自分が時に
輝かしく見えていることだったる。
この物語は誰かを羨んだり、妬んだりするのでは
なく、誰かの「輝き」を見つけ
自分のやりたいこと、生き方を
自分自身で見つけていく映画だった。
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