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『ルックバック』鑑賞と私の美大時代と創作の源泉

遅ればせながら『ルックバック』を鑑賞してきた。

普段からアニメーション作品をあまり観ない当方。
自分の好みだったり、アンテナに引っかかる作品ばかりを映画館に観にいく中、『ルックバック』の評判があちらこちらから漏れ聞こえてきて観にいきたくなりました。

映画興行という観点でも58分という短い尺にも関わらずヒットしていて、尺が短いからこそ劇場でかかる回転数が良くてどうやら儲かっているらしいという妙。

「これは気になる!」とばかりに原作のことなどもわからないままに全く予備知識なしで見に行きました。

もう超良かったです。
この映画の良さや読解という観点は他の論評などで詳しく書かれていたりするだろうし、沢山のファンがいるでしょうからその観点はその人たちにお任せして。

私はこちらのnoteで本作が自分の美大時代を過ごしたことを思い起こさせてくれたことについて書いてみたいと思います。

私は2浪の末に、2006年に多摩美術大学の情報デザイン学科情報芸術コースに入学しました。
中学時代には美術で2を取ったこともあるくらいに美的センスはありませんでしたが、高校時代の進路相談で自分が行ってみたいと思う学校がありませんでした。

モテない部活に入り、パッとしない学生時代を過ごしてきた自分にとって「せめてここから進学する大学生活は華やかなものであって欲しい」という自分の浅はかな願いから進路を美術大学を志望していくことに決めました。

美術大学の受験にはデッサンや色彩構成などの実技試験があり、学科試験よりも遥かに点数の割合が大きいです。
その実技試験の訓練のためにほとんどの人は美術予備校に通ってデッサンや色彩構成の訓練をして受験に挑みます。

絵を描くことが元々上手い人なんかは実技試験は合格点だけど、学科試験で落とされてしまうなんてことも少なくありません。

美術予備校では圧倒的にデッサンの描写力がないことを痛感させられる日々でした。
現役合格は当然のことながら掠りもせず、1浪では補欠合格はしましたが回ってくることはありませんでした。
不退転の2浪。「上手いとかセンスがある」とかじゃなくって「気合いで受験用のデッサンを仕上げる」という状態をなんとか仕上げて、多摩美大学に入学しました。

入学して早々デザインをやることは諦めて、表現の方向性を映像にシフトしました。
共通科目で受講した映像論(テーマに沿った映画を観て、その映画について教員の講義を聞く授業)に感銘を受けたからです。

自分が入学した情報芸術コースは発展途上のメディアアート全般を扱っており、映像表現は写真や映像、CGやアニメーションといった映像のジャンルを横断してどんな表現をしても良いという雰囲気でした。(同期に夢眠ねむさんがいました)

私はドラマ制作をしてみようと試みていましたが、芝居が出来る友人はおらず、脚本も書けない。目も当てられない作品を量産していました。
講評会では教員からフルボッコのお叱りを受け、恥ずかしい思いばかりしていました。
当時クリストファー・ノーランが『ダークナイト』を撮って公開していた頃で、教員には「お前もノーランの作品とか参考にしろよ〜」とかも言われたり。
でもノーランの『ダークナイト』を見ても凄過ぎて、23歳の学生は何を参考にしていいか分からないじゃないですか。
その頃は個人的にB級映画ばかりを見ていたこともあり、IMAXフォーマットで撮られたダークナイトの凄さも解読が出来ないようなうぶな状態でした。
もう八方塞がりでどうすることも出来なかった。

一方でその教員は手書きアニメーションを描く生徒たちを絶賛していました。
課題で制作された手書きアニメーションは様々な手法がありました。砂を集めて、それをトレースしてコマ撮りしていったり、アフターエフェクトで描いた絵を動かしたり、いろんな手法がありました。

手書きアニメーションを制作する生徒さんたちはお世辞にも社交性があるタイプとは言いがたく。
学校にもあまり来ず、課題発表の時だけ顔を出すという雰囲気で、見た目もどこか地味でした。(偏見かもしれませんが、当時の私の実感は実際にそういったものでした)

私は内心、どこかで彼らを下に見ていたようなところがありました。
スクールカーストで言えば、下の方にいるような雰囲気。いつも部屋に篭っていて対人コミニュケーションが上手くなさそう。
まさに『ルックバック』の自分の部屋から外に出ず、黙々と漫画を描き続けるような京本のような人たちが沢山いました。

しかしヒエラルキーで下なのは私でした。教授は彼らの作品を絶賛し、「『メディア芸術祭』に出品すれば良いところまで行く」と生徒たちからすれば天にも昇るような嬉しい気持ちになる言葉が投げかけられていました。

私はそんな手書きアニメーションで表現する彼らに強烈なジェラシーを感じました。

描写力も何もない自分。だけど映画が作りたい。

「俺も褒められたい。認められたい」
拗らせた感情だけが誇大化していきました。

「なんで部屋の隅っこにいるような地味なヤツらに敗北感を与えられなきゃならんのだ!」
と腑が煮え返りくりそうな勢いでした。

私に残された手段は彼らに対抗するのは真逆のことである社交性と、まさに外に出たからこそでしか遭遇出来ない「面白いヤツら」を撮ることで勝負をするしかありませんでした。

「書を捨てよ、町へ出よう」と寺山修司のタイトルを都合よく解釈した私は残された手段は自分が取り組んでいた学生プロレスを題材に、脚本を書かなくても成立ができるドキュメンタリーで勝負するしかありませんでした。それは自分の卒業制作として起死回生の高評価をいただくことになりました。

その後、社会人になりプロレス関連の映像を撮り続けたりすることで、一丁前に「映像で飯を食べています」と言える状態にはなりました。
今、部屋の片隅にこもって編集などをしているかと思いきや、部屋に籠ることもあるけど、ちゃんとジムや道場に行って鍛錬をして肉体が成長していっています。
そしてより社交性が必要な自営業のスタイルになりました。

そして今、『ルックバック』を観ました。
何故、こんなにも自分の過去のことが喚起されたのでしょうか。

京本が「美大に進学したい」というシーンがあったからということも理由としてはあるかもしれません。

でも何よりも『ルックバック』がこうして自分ごととして捉えることが出来るチカラのある、まさにアニメーションだからこそ表現出来る飛躍と時間軸の構成だったからこそではないでしょうか。

藤野と京本が描く漫画が、まさに生命を与えられるんとする生き生きとした創作活動。二人は部屋にこもっているけども、エネルギーがある。熱中出来る、熱狂出来る。
世界から断絶された部屋のように思えていたけども、彼女たちは「自分たちの世界」を創ろうとしていたのだと気づきました。世界にアクセスするための作品を創ろうとしていたのだとわかったのです。

何かを創ってそれが世に伝わり、評価される。期待される、飯の種になり、仕事になる。そんな「創ることそのもの」の肯定が本作にはありました。

そして藤野と京本が過ごす日常こそが、私が嫉妬していた手書きアニメーションを描いていた彼らの姿と重なります。
学校であまり見かけなかったし、ほとんど会話すらしなかったけど、藤野と京本のようにこうやって闘っていたんだなと感じます。その想像性がルサンチマン丸出しの当時の自分にはありませんでした。

それは同時にスポーツのようでもあります。
プロ野球選手を目指す人で言えば、時間さえあれば素振りをするように彼女たちは描きづづけていました。
描き続けていくことで未来が拓かれる。近道などはなく、ただ愚直さに直面する藤野と京本の姿を愛おしくスクリーンで眺めていました。
『ロッキー』で言えばトレーニングモンタージュです。アニメと実写映画の違いはあれど、その愚直さと挑戦の尊さに大きな違いはありません。

『ルックバック』は創ることで世界を切り拓かんとする精神が58分にギュッと込められていたような気がします。
特に後半部のとある飛躍があるシーンについてはまさにアニメーションだからこその描写と時間軸の表現が展開されていきます。ある種のフィクションが現実を凌駕していくサムシングに満ちていました。

『ルックバック』の京本のような人たちに嫉妬してきた私ですが、それでも『ルックバック』の中に"私"はいたような気さえします。
それは創ること、愚直さに向き合うこと、フィードバックをもらうことの喜び、創ることで社会と接点を持つことなどなど、漫画を描くということやアニメーション作品であることに限った話ではなくあらゆる創作者に向けたファンファーレのように感じられたからです。

今も私は映像を創っています。ドキュメンタリーのような形態がほとんどです。
撮った素材の使い道に悩んでは、やはり部屋にこもって編集をしています。

『ルックバック』を観て思いました。
あの時、手書きアニメを描いている生徒たちにジェラシーを感じていなければ今、自分は何者になっていただろうか。
アニメーションが憎いこともあったけど、こんなにもアニメーションだからこその表現に心が震わされることはあっただろうかと。

藤野が京本の才能に触れた時に、「もっと頑張らないと」と感じたように、表現というものは互いに連鎖し合うのだとつくづく感じました。

その源泉がジェラシーであったとしても、そのジェラシーがまた動力源になります。私はこうした『ルックバック』側の人たちにジェラシーを感じたことで、ドキュメンタリーを創り続けたいと感じ、案件の大小問わず今も取り組んでいます。
創ることへの自尊心が傷つけられれば、声を上げるようにもなりました。
そんな自尊心が生まれたからこそ『ルックバック』に感銘を受けたのかもしれません。

願わくば、こうした全ての創作者の愚直な一歩一歩がしっかりと敬意や対価が与えられる世界になってほしいと感じます。
ついつい自分のことばかり書きましたが、そんな強烈な喚起を与えてくれる愛おしい作品だと思いました。

是非、劇場で観てほしいと感じます。


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