頚胸椎靭帯骨化症って何?え?難病指定!?

身体は丈夫な方だと思っていましたが、何だかんだでけっこう入院しているワタクシ。小6の時には学校の裏山にある戦没者慰霊碑の石燈籠に登って、ポキっと折れた燈籠の首とともに落下して、左太腿を40針縫う大怪我がありました。
大学2年の時には健康診断からの大学病院での精密検査で心房中隔欠損症と診断され、入院からの手術直前に誤診と分かり、ラグビー関東大学対抗戦の真っ只中に2週間の戦線離脱という事件がありました。大学4年時には、兼ねてよりの椎間板ヘルニアでついに足が動かなくなり、手術からの実質現役引退。

それ以降は大きな怪我も病気も無く、コロナもうまく回避してきましたが、一昨年の暮の11月頃にベッドから起き上がった瞬間に痺れを伴う腰痛が発生し、足の力も入りにくくなりました。

そのすぐ後日に野田平でメタキャンの準備をしている最中、薪を運んでいて前が見えなかったとは言え、特にどうってことの無い地面の窪みに躓いて転倒。翌年の春に嫁さんと行った伊勢神宮参拝で雨が降っていたせいか、木の橋で滑って転倒。他にも琵琶湖のヨットハーバーのエントランスでまた雨で滑って2度の転倒。夏には公園でパエリアの練習中にまた地面の窪みで転倒。パエリア日本選手権の選手紹介で段差をうまく越えられずステージ上で転倒、その後もイベント中ずっと耐え難い痛みが襲う。雪のキャンプ場でも2回転倒。
いや、私、本当に転ばない人間でして、ぬかるみで滑ろうが躓こうが転んだことなんてまず無かったんです。

それが、こんなに何回も転倒して、俺の身体は一体どうなっちまったんだ?

腰痛も足の痺れも増すばかり、力が入らない。体格が大きいので、周囲も痩せろよ、そうしたら治るよと言って来ます。運動したくても、そもそも立ち上がるのが辛く、動くこと自体を敬遠していました。
仕事もなかなか病院の診察時間内に切り上げることが難しく、行ってませんでした。

2023年は身体をしっかり治そうと思いまして、年末年始に野沢温泉で湯治。整体院に行ってみても全く改善せず、少しずつ食事の改善もしながらの矢先、3月頭に博多駅から名古屋駅へ向かう新幹線の中で眠気で首がコックリと傾いた瞬間に電気が走るような痛みと痺れが身体全体に走りました。

名古屋で新幹線から出るにも足がガクガクでスーツケースにしがみつくようにして歩き、帰宅。
これはいよいよマズいと思いながらも翌日は多少症状が回復していたので、そのまま出勤するものの、途中、駅を出るところの段差でまた転倒しました。

整形外科で何とか遅くまで診療をしている所が自宅最寄り駅にあったので、早速受信したものの、医師はレントゲンだけ撮って「リハビリして痩せろ!!」とだけ言われます。半信半疑で何度かリハビリに通ったものの電気治療機とマッサージだけ。本当にこれで良いのかと聞いても「地道にやるしかない。」の一点張り。首の痛みも訴えているし、明らかに腰痛だけの問題じゃありません。

そこで、職場の上司から評判の良い整形外科医を紹介していただき、会社を半休して診察に行ったところ、医師は「今日はもうレントゲンも撮らないし、紹介状を書くからとにかく早く日赤病院でMRIを撮りなさい。君の状態は明らかに頚椎に異常をきたしているから。ここの前に受診した整形外科はどこ?あー、あそこか、、、。酷いな。」
とおっしゃり、紹介状を渡してくれました。
結果的にも本当にこのお医者さんは名医でしたね。

言われた通りに4月の頭に日赤病院に予約を入れ、初診でもやはり頚椎の異常の疑いありで、MRIの撮影の予約を入れ、結果を聞きに言ったところで。

「頚椎と胸椎の靭帯骨化症です。難病指定です。手術が必要です。」淡々と告げられました。
「え?難病?え?」
「症状に至る原因が不明で国が難病としている病気です。」
「はあ、、、。え?腰関係ないんですか?」
「腰は腰で良くないかもしれないけど、はるかに優先すべきは靭帯骨化症の手術をすることです。」
「手術から退院までどのくらいかかるんですか?」
「わかりません。順調にいったとして、1ヶ月〜2ヶ月ですが、えてして順調でない場合が多いです。」
「はあ、、、。放っておくと半身不随とかそういうレベルの話ですか?」
「もうここまで症状が出ていたら、将来的にはそうですね。」
MRIには骨化して肥大した靭帯が脊柱管にある神経を圧迫している様子が頚椎と胸椎に何箇所もありありと映っていました。
仕事、妻、家族、今後の人生というワードが頭を駆け巡ります。手術の場合、名古屋でやるのか、福岡でやるのか、、、。整理がつかない状態を見かねて、次回の診療で、方針を決定することになりました。

妻や会社に報告し、言い知れぬ不安が襲ってきましたが、とにかく治さんことには仕方がありません。
名古屋で手術の場合、転院して名古屋大学医学部附属病院(以下、名大病院)での手術・入院となるそうで、ここは脊椎の専門チームがあり、とても実績があるとのことで、名古屋での手術を決心しました。

名大病院はGW直前の受診で、既に5月中にも手術したいと医師に告げられました。GW明けには早々に手術日程が確定し、仕事の引継ぎや傷病休暇の申請など行い、難病指定なので国への補助申請は妻が名古屋に来て頑張ってくれました。
国や会社、健康保険の様々な制度を調べる中で、日本の医療制度というのは本当にしっかりしているのだなと改めて感心しました。

そんなこんなで、迎えた手術の日、妻や家族の面会も終え、付添の看護師さんと手術室まで歩いて向かいます。広々とした空間、大きな設備、緊張しながら進みます。
手術室に到着し、台に仰向けになると、身包み全て剥がされ、身体がいろんな機器や管と接続されていきます。喉の奥の奥まで麻酔を噴射され、挿管されます。意外にもこの時の寝心地は近年稀に見る最高の状態でした。
「今から全身麻酔かけますからねー、麻酔効いてきますよーー、、、、。」

………………。

「○○さーーーん?手術終わりましたよーー!起きてくださーーい!」

まだ麻酔で意識が朦朧としていましたが、医師の声で目覚めると、ICUの病室内でした。手術はうつ伏せの状態だと聞いていましたが、この時には既に状態が少し起こされた仰向けに直されていました。
妻や家族もいます。表情は覚えていませんが、私が目覚めて安心してくれていたでしょう。

手足も動くし、痺れは相変わらずあるものの、感覚もあります。手術は大成功でした。

手術箇所は頚椎と胸椎の2箇所それぞれの骨化した部分を削り、胸椎はプレートを入れてボルトで固定という大手術。8時間という長い時間がかかっていましたが、私には一瞬の出来事でした。

手術の開始時間が午前8:30でしたので、17:00頃だったのでしょうか、だんだんとハッキリしてくる意識が途中でまたまどろむような薄い意識へと変り、そのまま一夜をICUで明かします。1時間ほど経過したかと思えば15分しか経っていない、時間の経過がいやに遅かったです。そんな退屈さと気だるさに耐えながら、翌朝にはICUから出ることができました。経過によっては2日間ICUと聞いていたので、本当に良かったです。あんな身動きもできない中で2日間も耐えられません。

病棟の病室に戻されると、妻や母が迎えてくれましたが、まだコロナ対応が続いており、翌日にはもう面会できないということでした。
モルヒネ系の痛み止めが効いていて、あまり覚えていませんが、これが手術前後の記憶の記録です。
その後の2日間くらいは麻酔とPCA(速効性の痛み止め)が切れて、痛みで眠れない夜を過ごすことになりましたが。

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