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【雑記】

最近新たに出会う方々とお話する機会や
20年以上前からの知り合いと改めてお話する機会が増えてきて
自分自身の半生のようなものを振り返る時間が多く過ごせている。
そこで気付いたいくつかのことをざっくり適当に残しておこうかなと思う。

幼少期倒れた時の記憶

私は割と重めの小児喘息を患っていたらしい。
3歳の時に廊下で泡をふいて紫の顔で倒れていたところを
親が発見し即入院。
もう危ないかもしれない、と告げられる程だったらしい。


私には3つの記憶があり
ひとつは薄暗い部屋の中
二台のベッドが置かれていて
私が寝ているベッドともう一つのベッドに
同じくらいの大きさの男の子が寝ている光景を
天井辺りから見ていた記憶。

もう一つはビニールで囲われて
外がぼやけてみえている世界
(おそらく酸素濃度をあげたビニールハウス?の中に居たんだと思う)
金属のクリップで留められた隙間から
Hi-Cアップルの黒い缶が差し入れられた光景。

もう一つは退院する日かその前日であろう日の
お昼ご飯にデラウェアが出たこと、
売店に売ってたキャンディキャンディの絵本をプレゼントされたこと。

その記憶しかない。

後々親戚から話を聞いたら
うわごとで家族や親せきの名前をずっと呟いていたらしい。

自分が入れ物に入っていると気づいた幼少期

なかなかな重さの喘息だったので
ちょっと風邪をひいたり
昼間に調子に乗ってはしゃぐと夜中に重めの発作を起こす子供だった。
家には常に酸素ボンベがおいてあり
あまりにも呼吸できないときには
大きなビニール風呂敷を頭からかけられ
その中を酸素で満たすという応急処置がされていた。

どうにもこうにも息ができないときは
夜間救急センターに連れていかれて点滴を打ってもらっていた。

この、病院へ向かう車の中でいつも決まったイメージが見えていた。

大きなカマを持った死神のような存在が
私の中にいる私の肺の辺りにそのカマを
ほんの少し刺している映像。
全てを振り落してしまえば死ねるのに
抜くこともせず、中途半端にそこで留めている。

この映像が見えるときは無理に呼吸をしようとしても
肺が大きく動いてしまい、止まったカマによって
余計苦しまされるので
小さく細く、ゆっくりゆっくり息を吐いて
ほんとに吸えているのか?と思うくらい
小さく細くゆっくりゆっくり息を吸っていた。
そうすると幾分か楽な気がした。

そういう呼吸を続けていると今度は
深海の奥底に自分が沈んでいるイメージが見えてきた。
こうなると楽になれることを知っていた。

現実の自分は車の助手席に乗せられて病院に向かっているだけなのだが
私の中の私は、車ではない所にいる感覚をいつも持っていた。
そして、そのイメージの中の世界での工夫が
現実世界でも生きやすくなる方法だと感じるようになった。

自分だけど自分じゃない感覚

あれから早40年。
どのくらいの時期から感じるようになったのかわからないけど
今も私は肉体という容れ物の中に入れさせて頂いてる感覚を強くもって生きている。
例えば身体を構成している60兆個とも言われている細胞ひとつひとつの働きのことを、私は全然知らなかったりする。
何処の細胞がどんな働きをしてくれて今こうしてタイピングできているのか。

直接的に作用している細胞だけではなく、それをサポートする細胞たち
そんなことに関わらずおなかをすかせたりトイレに行かせたり
全然関係ないことを思い出させようとしている信号もあったり
なんだか体内はいつもとても忙しそうだ。

私の意志だけで生きているわけではなく
細胞たちの意思ももしかしたらあるのかもしれないし
そんなことお構いなく彼らはせっせと自分に与えられた仕事を
毎日こなしているだけかもしれない。

「今日も一日わたしを動かしてくれてありがとう」
体内の全細胞さんたちに向けて感謝をしてから眠る夜は
とても穏やかな気持ちになるし
翌朝はとても身体が軽い。

私だと思っているこの入れ物はやはり、私じゃないから
付き合いは長いけれど、慣れあうことなく
礼儀正しく向き合っていきたいなぁと思う。

正直色々どうでもいい話

結局、言いたかったことに繋がる前に
書くことに飽きてきてしまった。
どうしようもないですね。

ほんとはこの小見出しの
「どうでもいいんだよw」という話を書きたかったはずなんだけど
それはまた、あるかどうかもわからない次の機会に。



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