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正しさや行く道というのは沢山あるというお話

こんにちは、こちらに書くのはお久しぶりです。
この数日フジロックの配信を見ながら自宅フェスを楽しんでいました。
沢山投げ銭したいくらい綺麗な映像で、いろんな思いを抱えたいろんな人たちの姿を見て感じたことがたくさんありました。
ただ音楽を楽しんで気持ちいい!だけじゃないものが確かにあるなと感じたので残しておきます。

「私は以前からこうだったなぁ」感

ステージに上がる人たちの「伝えたいもの」がとても大きく感じた今回の時間。本当に伝えたいことを丁寧に言葉を選んでお話していたり、そこにただ存在するということで伝えている印象をとても受けました。
そして観客の皆様も十分な配慮と対策の元、素晴らしいパフォーマンスを受け止めて感動を瞬時に声で発散することなく、全身で受け止めて細胞にしみ込ませたのだろうなと感じました。


今の瞬間は今しかありません。
明日どうなるかなんて誰にもわかりません。
それならば今の最善を選ぶ。

画面越しにこんな感覚がやってきました。
同じような言葉を私はずっと昔から言っていたような気がします。
当時とは中身はずいぶんと変わってしまいました。
それでも、この感覚が強く自分の中に残りました。

正しいと感じる反対側にあるものとは

私が高校生の頃、アムラーやギャルが増殖して周りの女子たちはこぞって紺色のブレザーやピーコートにスーパールーズソックスを履き真冬でも膝が丸出しのスカート丈にしてバーバリーのマフラーと白髪のようにブリーチしたメッシュの髪色な頭には巨大な造花をつけていました。真冬でも。

みんなで同じ規則の制服を着ることに反抗している彼女たちは、結局同じような恰好を好み同じような感覚の仲間とつるんでいてそれが彼女たちの正義だったんだろうなぁ。。

そんな彼女たちを眺めながら私は
「よっしゃ真逆行ったろかいな」と黒髪のオカッパ(ツーブロック)にして子供の頃に着ていた浴衣をリメイクして長めの斜めかけバッグを作りスカート丈も規定通りボーダーのニーハイソックスを履いて厚底ゴツゴツの赤い靴を履いて肌色は白く、アイラインと唇を赤くして登校していました。
時にはカラフルなヘアゴムでモヒカンみたいになるように結んで行ったりして「さすがにそれは、、、」と注意されたりもしていましたが学校という狭い空間の中で同じ格好の人が居ないという時間は私にとって「私という正義」を味わえる貴重な時間でした。

ところがそんな時間もあっという間に崩れ去ります。
ふと立ち寄った本屋さんに並んだストリート系のファッション誌(fruitsやKERAやZIPPER)を手に取ると、まるでこれから出会う仲間たちかと錯覚してしまいそうなくらいシンパシーを感じるようなド派手な子たちや全身真っ黒のコーディネートや見たこともない形のお洋服を着てポーズを決めてる子たちが東京の道端にたたずんでいます。

流行りという名の正義の真逆もまた、流行っているものなのだと確信を持ったのはこの時でした。

良いとか悪いってなぁに

今朝ふと感じたのは「良い」とか「悪い」てなんなんだってこと。
そしてどうして人は自分の人生全てを捧げているわけでもない、ちょっと見知ったモノに対して「良い」とか「悪い」とか言いたくなるんだろう?ということ。

よく昔お友達と呑みながら話してるときに聞いて有益な情報だったり良い話だったりするとありがたいなぁって気持ちになったり良かったねーってほっこりしたり、悲しいお話やつらいお話は聞くだけしかできなくてごめんねと思ったりなんだり。
でも私がなんだかんだで一番好きなのは

「それ要らない情報だよ~!!!!」とか「え、散々話聞いたけど結局なんの話だったの?これなにタイム~???」てバカ笑いが発生してしまう「無駄情報」をお話する時間だった。

良いとか悪いとかなんならオチもなかったりする他愛もない話をする時間がなにより愛しくて特別なことをなにもしない時間が後々になって実は特別だったなぁと思えたり、、、と、これは脱線。

なにが言いたいかというと
実はこの世のものすべてにこれが当てはまるのではないかな?という憶測。

例えばだけど「リンゴを一日一個食べれば健康!医者いらず!」なんて言葉を見たことがあります。
しかし私はシラカバ花粉アレルギーでリンゴを食べると喉が腫れてかゆくなってひどいときは喘息を起こしてしまう。
みんなが良いと言ってても私にとっては良い作用を得られない場合もある。こんなことは、他の方々も味わったことあるんじゃないかと思うんです。

実はほとんどが「なんでもないコト」でできていて、見方や環境や気分や都合によってかりそめの「良い」と「悪い」が目について、なおかつ人という生き物はその「良い」と「悪い」を言いたがる。伝えたがる。

一個人としての感想という大前提の元発表するのは全く構わないと思うのだけど「これいいですよ!」「これはダメです絶対!」なんて言ってるのを見かけるとヒヤヒヤしてしまう。
あなたがその言葉を向けているその相手の「判断する力」を見くびってバカにしてないか?と。

そしてあなたの中にまるで正義のように鎮座している「これは良い」「これは悪い」というのもまた、誰かの「良い」「悪い」という意見をインプットすることによって生まれた勘違いではないのか?と。

私が思う愛

今、こういう状況の中、様々な立場や環境に身を置いている人がいて
それは実はこんな状況になる前からなんら変わりはなかったのだけども
違う業種違う立場の人たちが各々抱えている「正しさの違い」がわかりやすく浮彫になっているんだなぁと感じます。

自分とは違う職業の方々を思いやり、自粛するのも正しさだし
こんな時に音楽を楽しもうとするなんてなにも考えていない!という人も正しいと思う。
ただ、みんな同じ仕事をしていないから成り立ってる世界でもある。
みんなが同じことをしていないからこそ成り立っている。

私の友人は今回のフェスに行くという友人の背中も押し、行くのを止めたという友人にもその決断に対し肯定したと言っていた。
(私もその友人も宅ロックフェスを楽しんだ)

「あなたが選ぶどんな決断も応援するよ」
愛する人に向けるまなざしのように、今まで以上に関わる全ての人に、まだ出会っていない人にも、たとえ自分と違う考え方の人にも、こんな愛のまなざしを向けることができたら

こんなご時世の中でももっと穏やかな気持ちで過ごしていけるんじゃないのかなぁ、と思っております。


人の数以上に正義や正しさは存在していて、その先に道ができていく。
それはまるでガクから広がる花びらのように美しいものになるのではないかなぁと、思ったりしました。

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