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「多様性を認める」と、口だけで言うのは容易い。

よね。という、あるありふれた夜の話。 ※若干の胸糞注意

こんにちはこんばんは、れでぃーすあんどじぇんとるめん。水生です。
数秘術で占えば33、MBTI診断ではINFJ、バイロマンティック、ノンセクシャル、ノンモノガミーと、奇人変人扱いがデフォルトの少数派五重奏みたいな生き物ですが、生憎今日も生きています。
つい先日、後者の三つについて公言したこともあって、せっかくなので、今話題の「多様性」について、印象に残っている数年前の実体験の話をしようかなと思ってnoteを開きました。

結論は表題の通りです。「『多様性を認める』と、口だけで言うのは容易い」。
一応気を遣って綺麗な言葉を使いましたが、わたしの感覚をより直截的に述べると「『多様性を認めよう!』なんて気安く綺麗事言ってんじゃねぇ。口で言うだけなら簡単だ、実行できるもんならやってみろ、超難しいぞ覚悟はあるか」です。

はい、この時点でお察しいただけましたね? 聞く人によってはちょっと、いやだいぶ胸糞の悪い話だと思います。時代の最先端のようで、ある意味逆行するかも知れない話です。


改めて当方スペック

わたしがどういう人間なのか、という前提をある程度話しておかないとちんぷんかんぷんだと思うので、自己紹介。

1.バイロマンティック
恋愛対象は異性・同性の両方。片鱗は幼稚園くらいからあり、自覚したのは中学時代。

2.ノンセクシャル
性的欲求がない。ハグまではOKだが、性的接触に抵抗感と嫌悪感があり、キスはぎりぎりできるかできないか(よくて「体温を感じますね」、または若干苦痛)、セックスは完全に無理。侵略か攻撃としか認識できない。対同性の方がやや抵抗が薄い。
一応、相手によっちゃ平気なのかも知れないと、未来の可能性は否定していないので「今のところ」。
高校時代から片鱗はあり、はっきりと自覚したのは大学卒業間際くらい。

3.ノンモノガミー
複数人を同時に好きになることがある。「貴方だけ」と口が裂けても言えない、だってみんな素敵だ。独占欲は皆無、束縛は大の苦手。
相手に恋人や配偶者がいても平気で好きになるが、パートナーがいるそのひとのことが好きなので、嫉妬や略奪は発想が一切理解できない。
中学時代から片鱗があり、決定的に自覚したのは割とつい最近。
何とかモノガミーの価値観に嵌まって生きようと自己否定してもがいてきたけど、無理だなと諦めた。

1<<2<<<3くらいの難易度で理解されないだろうと思っているので、好きなひとができても告白もアプローチも一切なしが基本路線。
付き合うとしても別に何がしたい訳でもないし……全部一般的には友情の範疇で済むことなので……それよりは好きなひと(とその大事なひと)の迷惑になる方が嫌なので、必要もないし、「黙ってよーっと」という感じ。
3については、自分のセクシャリティはそうだけど、倫理観は一夫一妻制度の下で培われているので、感情と理性のダブルバインドでそこそこ苦しい。

詳しくは拙記事『だいすきだよ、世界。だから、嫌いにならないで。』に書いてあるよ。読まなくていいです。

あるありふれた夜のこと

その夜の写真が残っていたので、サムネにしてみました。日付が記録されていた。2017年11月21日。

その日、わたしは残業によって少し退勤が遅く、また残業になるとわかっていた日だったので、一緒に住んでいる両親に「夕飯は気分転換も兼ねて外で食べてくる」と予め断わった上で、20時過ぎに自宅の最寄り駅に帰り着き、行こうと決めてあったとある店に足を運んだ。
その店は、以前にも何回か家族と利用したことのある、手作りのキッシュと気取らないロングカクテルがおいしい、お洒落で落ち着いた雰囲気が気に入っていたこぢんまりとしたダイニングバーで、あれから4年が経った今は残念ながらもうなくなってしまっている。本当においしいキッシュだったので、閉店は素直に残念だ。

時刻は20時半過ぎ。
キッシュ三切れの盛り合わせと、旬の生牡蠣、トマトベースの洋風もつ煮込みを注文し、家族と一緒の時では座れないカウンター席という特等席に陣取り、「ふう! 20日締めの労働の後の酒はうまいぜ!」とわたしは一人で大変にご機嫌だった。

あの瞬間――二つ空席を隔てた、カウンターの向こうに座り、同じく一人で酒を飲んでいた男性が声をかけてくるまでは。

三十代の半ばから後半ほどの歳に見えるその男性(以後「彼」)は、大きめのワイングラスで赤ワインか何かを飲んでおり、もう随分と長いこと飲んでいたようで、傍から見ても、それなりに酒精が回っているのが見て取れた。まぁ、別にそれはいい。酔えない酒なんてつまらないだろうと思うし、酔いの勢いを借りて、同じ店に居合わせたよしみで声をかけようという発想は全然嫌いじゃない。

彼は、当時二十代半ばで、ちんちくりんな童顔をしているせいで傍目には成人して間もないくらいにしか見えない、要は若い女性であるわたしが、誰とも連れ合わずにたった一人で酒を飲んでいることに興味を抱いたらしい。質問は今日は一人なのか、というところから始まり、その後自然な流れで、寂しくないのか、そして彼氏はいないのか、と繋がった。

全然寂しくないですよー。一人でも楽しいです。彼氏? いませんねー。欲しいとも特別思わないのでねー。

わたしも迂闊なもので、軽率にそう、いらんことを言ってしまったのが不味ったかも知れない。
いや、不味かった。完っっっ璧に不味かった。

彼氏はいない要らない、欲しいと思わない、というわたしの発言に、彼は非常に驚いたようだった。その驚きはむしろ「衝撃」に近かったように見え、まるで珍獣でも見つけたかのようにその目を見開き「何で!?」と笑いながら叫んだ。

「彼氏がいないなんてもったいないよ! 人生損してる!」

……まぁ、これも、恋愛至上主義者に溢れ返っている昨今の世の中ではよく言われることなので、慣れている。若干いらっとはしたが、いつものことだなと思って受け流した。えーそうですかねー? 別に損してるとか思わないですけどねー。
それにしてもキッシュうめぇな。トマト味のモツは最高だな。これはトリッパかな?

「だって、じゃあ、セックスは!? しないの!?」

……ほぉん?

さすがに眉を顰めた。間もなく21時になろうかという夜の時間帯ではあるが、初対面の、ただ店のカウンターで居合わせただけの若い女性に、よくそういきなり「セックス」と言い放てるな。お前もしかして相当酔っているな?
まぁ、平日の夜に一人で酒盛りしてる奇特な女なんて、セクハラしてもいい相手だと思っているのだろう。あるいは、その手のセクシーな話題の一つや二つでも出さないと、異性として見ていないと思われるから失礼だという価値観の男なのかも知れない。
無粋な態度を取ってお互いの酒が不味くなるのが嫌だったので、わたしはここでも受け流すことにした。

「ああ、したいと思ったことないですねー」

何しろわたしはバイにしてノンセクである。好きな相手と両想いになる確率はヘテロと比べるとどうしても低めだし(※当社比)、そもそも両想いになったとしてもセックスはしたいと思わない人間だ。
……とは、無論、特に必要なことでもなかったし、言わなかったのだが。ここで説明を省いたのがよくなかったのだろうか。

彼は素っ頓狂な声を上げた。

「嘘でしょ!? じゃあ今までセックスしたことないの!? 処女!?」

…………。

後の展開は言うまでもない。わたしは彼に散々絡まれた。絡まれたと言っても物理的にではなく、あくまでも会話の上でだが、わたしが晩酌を終えて店を去るまで、セクハラ紛いの彼との問答は続いた。

彼の言い分はこうだった。好きな人はできたことがないのか。できたのだったらどうしてセックスしないのか、したいと思わないのか。異常だ。ありえない。あの喜びを知らないなんて人生最大の損失としか言いようがない。若いのにもったいない。セックスしたくないならじゃあ好きな人とは何がしたいの? 理解できない。君はおかしい。

わたしは一つ一つ、なるべく失礼にならないように、丁寧に彼の質問に答えた。
好きな人はいたことありますよ。でも両想いになりませんでしたし、なりたいとも思いませんでしたし、なったところでセックスはしたいと思いませんね。必要ありません。人生の損ですか? そうは思わないですね。まぁそういう考え方もありますよね。好きな人としたいことですか? おいしいご飯を食べて、お酒を飲んで、お喋りができたら大満足です。セックスする暇があったら、同じ労力と時間で食事と会話がしたいですかね。

彼はどうにかして、わたしに「セックスは素晴らしいものだから、彼氏を作って一度は経験した方がいい」という意見に同意させたいようだった。
まだ夜も浅い内から、人目も憚らずにセックスを連呼する彼に、わたしもわたしで、少し意固地になり過ぎていたかも知れない。「ああそうですね、じゃあ機会があったら一度!」と笑顔で言って会話を打ち切ればよかったのだろうが、自分の価値観を侵害されたと感じ、表向きは涼しい顔のまま、内心はかなりむきになって「そうは思いません」と返事をし続けた。

どう言っても、まるで暖簾に腕押しのような返事しか寄越さないわたしに、彼はしつこく質問を続けた。質問はやがて説教めいた自論の展開へと移り変わり、わたしは冷め始めたモツ煮込みをもぐもぐしながら「酒が不味くなってきたな……」と思ってそれを適当に聞き流していた。
聞き流せば聞き流すほど、セックスの素晴らしさを説く彼の口調は流暢になった。
カウンターの中から、店のご主人がとてもすまなそうにわたしを見ていた。時折、彼に向かって「そのくらいにしておいたらどうか」「少し飲み過ぎじゃないですか」という旨のことを言った。……ご主人すまない。はいはいそうですねって適当に流せなかったわたしも自業自得なので、そんな顔なさらないでください。平気ですよ。おいしいキッシュご馳走様です。旬の生牡蠣はやっぱり旨いですね。

内心どう思っていたかと言えば、まぁ、4年後の今の流行歌の詞を借りるのなら、

うっせぇ! うっせぇ!! うっせぇわ!!!!!!
貴方が思うより健康です!!!!!!!!!!!!!

と、いう感じだったのだが、残念ながらこの時のわたしは、4年後に若き鬼才による曲が爆発的にヒットすることなど知る由もなかったのだった。

多様性なんて、多くの人には理解できる訳もない

まさか自分が飲んでいる時に、一緒に店で居合わせた若い女がセクシャルマイノリティだなんて、世の中の人間の大半は思ってもみない。残念ながらそれがこの社会の現実だ。
……と、いうことが言いたい訳では、残念ながらない。

この話においてわたしが言いたいのは、「マイノリティを理解しようとしなかった残念な男に絡まれた」ということではなく、むしろその逆。
「マジョリティが抱く恐れや不安に対し無理解だった残念なわたし」についての、今更ながらの反省を述べたいのだ。

彼の立場に立って考えてみよう。
夜、行きつけのバーでいい気分で酒を飲んでいたら、仕事終わりと思しき妙齢の女性が一人でやってきて晩酌を始めた。一人だなんて、一緒に食事をするような相手はいないのだろうか。寂しくないのだろうか。こういう時、傍にいて欲しいと思う相手はいるのだろうか? そう、自分のように。
ならば、そんな今宵寂しい者同士、ちょっとその気持ちを分かち合って、楽しいお酒が飲めたらなぁ……

ところが、いざ実際に話しかけてみれば、女は一人が寂しくないといい、彼氏もいなければ、いなくてもよく、自分が素晴らしいと思ってやまない愛あるセックスにも興味がないと素っ気なく言う。
え、何で? どうして?
そんな生き方、俺だったら堪えられない。でも、セックスなんてしなくていいと平然と言い放つ彼女は確かに不幸そうには見えない。そんな馬鹿な。じゃあ、俺が何より価値があると思っているあの瞬間は何なんだ? あの満たされたひと時の素晴らしさを、どうして彼女は理解しようとしないんだ?

……っと、若干色よく脚色はしたが、しかし、彼がわたしと会話をしながら、このような不安を抱いていた可能性はそれなりに高いのではないかと、あの日から4年の時を経たわたしは思っている。

精一杯強がっていたようだが、そうして流暢に、その割にはやけに必死に、彼は繰り返しわたしに訴え続けていた。セックスは素晴らしいのだと。その喜びを知らないなんてもったいないと。何度訴えても一ミリたりとも共感する素振りを見せないわたしに、彼が最後の頃に浮かべていたへらへらとした笑みの向こうには、何か焦燥のようなものが透けて見えてはいなかっただろうか。

例えばあの時、「セックスに大した価値があるとは思えない」などと冷たく反論せず、「そうですか、貴方はそんな風に思えるだけの素敵なお相手と営みの機会に恵まれてきたのですね。それはとっても素敵なことですね。差し支えのない範囲で、よかったらそのエピソードの一つ、お相手の一人のことを聞かせてはいただけませんか?」と尋ねていたらどうだったろう。
きっと彼は、大いにその喜びを語ったのに違いない。大きなワイングラスの中の赤ワインは、更なる美酒となったかも知れない。いい気分で帰路につき、それこそ愛しい誰かを想いながら、穏やかに眠りにつけたかも知れない。

他人のセクシャリティを、価値観を、ないがしろにし、無下に否定し続けていたのは、彼ではない。わたしの方だ。

そのことに、わたしはこの4年近く、無自覚だった。
無自覚のまま、4年が経ってしまったのだ。

マジョリティにはマジョリティの価値観があり、恐れと不安がある

という、言ってしまえば当たり前のことを、マイノリティの中で理解している人は、果たしてどれだけいるのだろうか。
マイノリティとしての生きにくさや息苦しさを、時に語気を強くしてメディアに語る人達を見る度、近頃のわたしはそんなことを考える。

マジョリティにはマジョリティの人達で、大切にしている価値観がある。その価値観の下で、安寧と秩序を保ち、子孫を産み育てて、この世界の繁栄を形作ってきた。
シスジェンダー、異性愛、一夫一妻、というそのセクシャリティや価値観と、(一見すると)真逆のように見える主義主張を掲げる人達が現れたのを見て、彼ら彼女らは何を思うだろうか。まず真っ先に思うのは、やはり自分達の築いてきた安寧と秩序を脅かしはしないだろうか、ということではないだろうか。
「自分達は虐げられている」「もっと理解して欲しい」として、一方的にマイノリティの権利を主張する人達こそ、その恐れと不安を正しく理解しているのだろうか?

わたしがマイノリティであると気づきようもなく、彼が無意識に価値観で殴ってしまったのと同じように、
マジョリティである彼の恐れと不安を解さず、わたしはあの日、無意識に殴り返していた。

無意識に。

そう、ただ自分の価値観を正しいものとして主張するだけで、人は無意識の内に、容易く誰かを傷つけてしまえる。

「多様性を認める」と、口先で言うのは簡単だ。そう言うのと同じ口で、無自覚に他人を殴りつけているかも知れないことに、果たしてこの世のどれだけの人が「自覚的」だろうか。

「理解し合える」という幻想

もっと極端なことを言おう。互いの価値観、セクシャリティを、「理解できる」というのは、幻想ではないだろうか。当事者の一人として、最近のわたしはそんなことを思っている。
あるいは、「マイノリティを理解しよう!」という昨今の風潮が、マジョリティの人達を追い詰め、却って多様性を認める社会の実現を阻んではいないだろうか、と。

申し訳ないが、マジョリティの人達に、我々マイノリティの頭の中身をわかってくれと言っても、100%の理解は不可能だろう。
何故ならわたしは、マイノリティの一人として、マジョリティの人達の価値観やセクシャリティを、100%正しく理解できているとは到底思えないからだ。
マジョリティ対マイノリティの話に限らない。人は一人一人が違う生き物である時点で、互いの考えを完全に理解することなどできるはずがないのだ。

例えば、国、民族、人種、宗教の違いにより争い合う人々を目にした時に、「みんな同じ人間なのに」と言って嘆き悲しむ素振りを見せる人を見ると、わたしは内心で首を傾げる。
「いや、みんな違う人間なんじゃないの?」と思う。

「きっと理解し合える」という幻想は、「理解できない」を悪にしてしまう。
みんな自分が悪者にはなりたくないから、「理解できない」のに無理に理解しようとして、不用意に距離を縮め、デリケートな領域に踏み込み、結果的に、善意によって相手を傷つけてしまう。

理解できなくていい。しようとしなくていい。
ただ、「そうなんだね」と言って、肯定もせず、もちろん否定もしなければ、それだけでいいと思う。
無理に距離を縮めなくていい。距離が近くなれば衝突してしまう。衝突を生まないためには、ぶつからないだけの距離を置くことが最も得策だ。

おおよその諍いは「きっと理解できる」→「理解できない、してもらえない」→「どうしてわかってくれないんだ!」というジレンマから生じると、最近のわたしは思っている。
そのしがらみから解放されるだけで、どれだけの人が楽な気持ちになれるだろうか。

そういう心の余裕があってやっと生まれてくるのが「認める」であり、それが自然と実現された社会が、「多様性を認める社会」なのだと思う。

おわりに

と、ここまで書いてから「多様性を認める」でGoogle検索したら、おおよそ同じようなことをりゅうちぇるさんが言ってたわー。https://www.huffingtonpost.jp/entry/ryucheru-diversity_jp_5ef998f2c5b6acab2843e6d4

「理解できなくても認め合うのが多様性」。もうね、そうだなーと思う。ただ、実際に実現するためにはもう一歩踏み込んで、「理解しないで認めるとはどういうことか、そのためにはどうすればいいか」を、より具体的にイメージして発信する必要があるかな、そういう段階に来てるんじゃないかな、と個人的には。

わたしの今のところの答えは、「距離を置く」。

遠くから手を振って、「大丈夫だよー怖くない怖くない」って笑顔で言い続けて、そうやって柔よく剛を制そうぜ。
「わたし達虐げられます!」ってめそめそ下向いてる奴に、同情はしてくれても、誰が共感なんかしてくれるもんか。「わたし達、たまに不自由だけどそこそこ幸せです!」って言ってりゃ、嫌でも応援してくれる人は出てくるよね。

なんか、最近の「マイノリティに理解を示そう!」みたいな風潮がつらいなーというか、いや別に理解してもらえなくてもいいし……ほっといてくれ……つーかそれは理解できない人達言われたらしんどくねぇ……? 逆効果では……ともやもやしていたので書きました。

おわります。



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