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だいすきだよ、世界。だから、嫌いにならないで。

あるいは『あいにく本日、未熟者』。
未熟者というよりは、実はわたしはそれなりに重度の社会不適合者なんじゃないか、というおはなし。

こんにちはこんばんは、れでぃーすあんどじぇんとるめん。水生です。
今更なんだけど読み方は「みずき」でも「みう」でも「みなせ」でも正解です。お好きなように読んで(呼んで)くれていいのよ。
恐ろしいことに、本日また一つ歳を取りました。そこそこいい歳になってきて、近頃思うところが少し増えたので、(特にわたしを直接知っているおともだちにとっては)正直あまり愉快ではない話かも知れないと思うのですが、ひとつ、聞いてもらおうかなと思ってnoteを書きます。
ぼくの話。わたし自身の話。


さて、くどいようだがそこそこのいい歳になってきたので、(既に色々諦めをつけてくれている家族や親戚はともかく)、やはり仕事やプライベートである程度人と接していると、「結婚はしているのか」「彼氏はいるのか」「結婚願望はあるのか」などと尋ねられるようになった。
まぁ、向こうも悪気があっての質問では全くなくて、なんか他に切り口もないのでとりあえず手っ取り早くそんなことを訊いてくるんだろうなぁと思って、そんな時わたしは「残念ながら相手もいなければ、さして願望もないんです」とやんわり答えることにしている。「ああ、そうなんだ」で割とさらっと受け流してもらえるから悪くない世界になったものだ。過去、《クリスマスケーキ》だなんて揶揄されていた時代があったことを思えば。

でも、正直、わたしにとってはかなりしんどい問いかけである。
結婚願望はない訳ではない。好きな人がいない訳でもない。ただ、結婚はよっぽどのことがない限りできないだろうな、と思っている。
世の中の「結婚観」と「恋愛観」と、わたし自身のそれとの間に、大きな隔たりを感じているからだ。

物心がついて間もない、比較的幼い頃から、わたしは「好きな人が二人いる時期がある」タイプの人間だった。
一人は異性の男の子。まぁこれは「普通」。そしてもう一人は、同性の女の子。
一人、とにかく毎日でもその子と遊んでいて苦ではないと思うほどの同性の友達がいて、それとは一方で、恐らくは思慕と言えるものであろう憧れみたいな淡い感情を寄せる異性の友達(?)がいた。
常に二人いる訳ではなくて、同性だけの時期もあれば、異性だけの時期もある。もちろん両方いない時期もある。

単純に考えれば、同性の方は友情で、異性の方は恋愛なんでしょ、と片付けられるのだと思う。
でも、当事者であるわたしからすれば、二者を想う感情にそれほどの大きな違いは感じられなかった。
どちらも一緒にいればどきどきわくわくするし、親密になれば手を繋いだりぎゅうっと抱き締めたりしたいと思ったし、彼ら彼女らのことを考えているだけでとにかく毎日が幸せで楽しい。会えないと寂しくてつまんなくて仕方ない。その子とだけは、みんなと一緒じゃなくて「ふたり」がいい。
何というか、「異性」と「同性」、「恋愛」と「友情」の境目が、酷くあやふやな子供だったのだ。

まぁ、子供の内はまだ感情が分化し切ってないだろうから、そういうことがあってもおかしくない。
でも、思春期に差しかかってまでその調子だと、さすがにおかしいなと思い始めた。
身体が大人になっていくにつれて、中で生成される感情の量が爆発的に増えて、同性なのにコントロールし切れない量の「好き」が溢れてしまって相手をドン引きさせてしまったり(当時はほら、厨二病も患ってたからさ)、
その同性の友人のことがまだ忘れられないくせに、一方で別の異性の同級生に親密な気持ちを抱いたりして、それが「恋愛」なのか「友情」なのかわからなくて、でもとにかく好きで、伝えたいけどどうやって伝えたらいいのかわからなくて一人で泣いたりする面倒な十代だった。

有難いことに、そんな面倒なわたしにも好意を寄せてくれる異性というのは少なからずいた。
でも、いわゆる思春期真っ只中の彼らの「ド恋愛感情」を寄せられると、妙な嫌悪感がして身が竦んだ。
その内の一人とは試しにお付き合いをしたけれど、「手を繋ぐ」「抱き締める」より先のことを求められると急に応えられなくなった。
自分は「好きなひと」ができた時、手を繋いだり抱き締めたり、触れてみたいなと思うのに。相手からそれを求められると駄目だなんて、何て図々しいんだろうと思うと罪悪感でしにたくなって、結局三ヶ月と持たずにお別れした。以来、彼氏はいたことがない。
(同性・異性問わず)たとえ自分から好きになったひとでも、「手を繋ぐ」「抱き締める」より先には想像が及びにくいという事実に気付いたのは、高校を卒業する直前の頃だったと思う。
やっぱりなんか普通じゃないなと思った。
誰かから向けられる「恋愛(性愛)」は途端に怖いものになって、なるべく異性を排除しようと、大学は女子大を選んで進学した。

大学、社会人、と進んで、接する人達が年齢も性別も未婚・既婚も様々になると、ようやく「自分が何者なのか」が少しずつ見えてきた。
わかったことは五つ。
①「好きになるひと」に、同性・異性の別はないらしいこと
②同時に複数のひとを「好きになる」ことが稀にあるらしいこと
③「好きなひと」に対する性的な欲求は、皆無ではないがかなり薄いらしいこと(むしろいわゆる「性愛」には嫌悪感が強いこと)
④性的欲求を伴わないので、既婚者を好きになることへの抵抗感や罪悪感が薄いらしいこと(友情の延長上のように自然と好いてしまうこと)
⑤自分が複数人を、そしてお相手のいるひとを好きになることがあるので、その分嫉妬心や独占欲が皆無らしいこと(略奪は一切考えられないし、逆に束縛されるのも苦手なこと)

わかったって言いながら、全部「らしい」がついているけれど。

わかったからと言って、悩みは消えた訳じゃなかった。むしろ増えたし尽きなかった。
この①~⑤に敢えて名前をつけようとすれば、①は両性愛(バイロマンティック)、②④⑤は複数恋愛(ポリアモリー/ノンモノガミー)、③はノンセクシャル、ということになるのだと思う。そんなことも、ちょっとおかしいなと気づき始めた十代の頃からこつこつ調べて覚えていった。
ちなみに、わたしが腐女子になったきっかけは、そうやって自分のセクシュアリティについて悩んでいる時に調べていてたまたまBLに行き当たったことだからね。ここ笑うところですよ。さんはい! 爆笑!

でも、そうやってセクシュアリティやLGBTQのことについて知っていく中で、バイロマンティック・ノンモノガミーという区分に自らがカテゴライズされてしまうことへの違和感も覚えるようになった。
両性愛も、ノンモノガミーも、ノンセクシャルも、世間的にはあまり一般的ではない思考(指向)であり、価値観だ。同じような価値観で生きている人が少なからずいることは、安心材料ではあった一方、「残念ながらマイノリティらしい」というレッテルを貼られてしまうことへの恐怖や抵抗感は拭えなかった。

わたしはおかしくない。
ただ当たり前に、自然に、出逢ったひと達のことが大好きで、少しでも幸せになって欲しくて、大切にしたいだけなのに。
でも、理解して、共感してくれる人は、きっと「普通」に生きている人達よりもずっとずっと少ないんだろうな。

「普通」って何だろう。

そう思った時から、わたしは「普通」という言葉が嫌いだ。嫌いなくせに、「普通」という概念にしぬほど憧れているから、話をしているとつい「普通はさ」「常識的には」とか言ってしまう。
「普通」の人達から、お前はおかしい奴だと言われて嫌われてしまうのが怖くて、一生懸命「普通」のふりをして生きている。
大丈夫、男のひとも好きになれるんだし。
大丈夫、セックスしたってきっとしなない。本当に「好きなひと」が相手なら気持ち悪くない。……多分。
大丈夫、略奪してやろうとか、人の家庭を壊すような破滅的な倫理観は持ってない。理解もなしに二股三股をかけようとも思わない。
大丈夫、大丈夫。
そうやって言い聞かせて、そろそろ三十年近くを生きようとしている。

でも、本当は、何かの型に嵌められて、何かの型に嵌まって生きるのは凄く嫌だと思っている。
別にわたしは突拍子もないことがしたい訳じゃない。ただ、異性だろうと同性だろうと、未婚だろうと既婚だろうと、「このひとといると凄く幸せだな」と思えるひとと、おいしい食事をして、おいしいお酒を飲んで、飽きるほどお喋りをして、そしてたまに、愛しいなと思った時、手を繋いだり、ぎゅうっと抱き締めたりしたいだけだ。
それだって、嫌だと言われたり、そのせいでその人の他の「大事なひと」が悲しんだりするなら、無理に押しつけようだなんて夢にも思わない。
そして願わくば、「好きなひと」に、世界中の誰よりハッピーになって欲しい。
「好きなひと」の、家族や、お友達や、恋人まで、みんなみんな丸ごと大事にしたい。

いずれはそんなひとと、ひと達と、何気ない日々を一つ屋根の下で暮らして過ごせるようになったらいいなと思う。まぁわたしは料理ができないんだけどさ。
友達でも恋人でも何でもいいよ。もうそういう括りすら、わたしには窮屈に感じる。

だけど、わたしのそういう価値観は一般的じゃない。
こんなわたしに好かれても困るという友人や知人はいくらでもいることだろう。幸いなことにもしも受け容れてもらえたとして、当人同士はよくても、ご家族やお友達や恋人は快く思わない人が大半だろう。
だから、せっかく「好きなひと」とおいしいご飯を食べて楽しいお喋りをすることができても、それがどんなにわたしにとって特別なことなのかを伝える術は、わたしにはない。
「大事なひと」だからこそ、困らせたくなくて、不幸せにしたくなくて。
そのひと自身も、そのひとの「大事なひと」のことも。
それで一生懸命、我慢する。
喉のすぐそこまで出かかった言葉を、必死に呑み込む。

「好きなひと」と一緒に過ごして、じゃあまたねってお別れした後、
その日が楽しくて幸せであればあるほど、わたしは帰り道で泣くことがある。
頑張って呑み込んで我慢した言葉が身体の中で暴れ回って、涙になって溢れてきてしまう。
電車の中で声も上げられずにぼろぼろ泣いてて、多分乗り合わせた人はぎょっとしてると思う。普通に不審者だよ。
でもどうにもならない。

「言えたらいいのになぁ」「伝えられたらいいのになぁ」と思って。

一緒に居て、どんなに楽しくて、幸せで、
たとえ会えない時でも、ただ貴方がこの世界のどこかで今日も頑張って生きてるんだろうなと思うだけで、わたしも同じように頑張ろうと思えるし、貴方に恥じないように生活を正そうと思えるんだよ、お洒落をしたり見識を広めようとしたりするきっかけをいっぱいもらってるんだよ、
本当にありがとう、貴方がこの世界に居てくれてよかった、なんて、
そんなクソデカ感情をいきなりぶつけられても、ほとんどのひとは挨拶に困るだろう。
ましてやそれが世界でたった一人だけっていうんじゃなくて、「貴方」は二人とか三人いることがあるなんて言ったら、その言葉のどこを信じろって言うんだと蔑まれて終わるだけだとわかっている。

それでも何とか、ちょっとでも伝えたくて、
わたしを幸せにしてもらった分、ちょっとでもそのひとを幸せにしてあげたくて、会えるとなったら一生懸命おいしいお店や素敵なお宿を探したり、プレゼントを買って贈ってみたりする。
呑み込み過ぎたせいで身体の中で暴れ回ってしまう凶暴な感情の、理性のフィルターで濾して出てきたなるべく綺麗な上澄みだけを掬って、下心なんて何にもないようなふりをしてそっと手渡す。
できればちょっとくらい、同じようにわたしのことを好きになってくれたらうれしいな、なんて思いながら。

ゆえに、たとえ当人的には軽い気持ちで口にした言葉なのだとしても、
「(人として)好きだよ」や、「結婚しよ!」だなんて「好きなひと」に言ってもらったり、
例えば今日のような誕生日に、他の友人や知人に対してと同じように「おめでとう」と言ってプレゼントを贈ってもらえたりすると、うれしくってしょうがない。
だけど、彼ら彼女らの言う「好き」と、わたしの思う「好き」には、マリアナ海溝くらいの隔たりがあるんだよな、と思うと少し遣る瀬無い。

わたしはそういう風にして生きている。
生きてきた。

でも、「好きなひと」になかなか会いに行けない、会えても食事やお酒なんてできない、こんな世の中がそこそこ長く続いたからこそ、
なんか、そういう全部をひた隠しにして生きるのはもうやめようかな、と思った。
ので、誕生日にかこつけて、こんな告白文みたいのを書きました。

こんなこと暴露したら、リアルなおともだちの何人かは「うわぁ……」ってなって、フェードアウトされてしまうんだろうなと思っている。
その中に、もし、「好きなひと」も含まれていたとしたら、凄く凄くかなしい。
でも、仕方ないことだと思う。
隠しても、偽っても、結局突き詰めればわたしはこういう人間なのだから、そこを嫌われてしまったらもうどうしようもない。
そのかなしみを、痛みを、約三十年かかって、やっと受け容れようかな。と思いました。

別に、わたし自身の振る舞いは今後もほとんど変わらないです。
突然愛情表現が過剰になるとかもありません。感情の押し付けは単純に失礼なので。今まで通り、なるべく理性のフィルターをかけて、ほんの一握りだけをちょびっとずつ、ビスケットを割って差し出すみたいに手渡していきます。見返りも求めません。ただ、そのバックグランドに、途方もないクソデカ感情を抱えている可能性があることだけは、もう隠すのをやめます。

ごめんなさい。わたしはこういう人間です。
もしよかったら、こんなわたしでも、「今までと全く変わらずに」、仲良くしていただけたらうれしいな。

家族は、というか両親は、なんとなく、今までの言動で、わたしが「普通」ではないことを察してくれているように思う。はっきり言葉で伝えたことはないんだけど。
だから、いい歳になって彼氏もいなければ嫁にもいきそうにない娘でも、急かさずにおいてくれています。有難いなぁ。
ただ、わたしが将来ひとりぼっちになってしまうのではないかということだけを、どうやらとても心配しているらしい(一人娘なので)。

なので、安心してねって、いずれ言ってあげられるようになったらいい。
「大丈夫だよ。結婚や恋愛っていうわかりやすい形ではないけれど、わたしにはとても大切なひとが居て、そのひともわたしを大切に想ってくれているから、毎日が凄く楽しいし、少しも怖くないし寂しくないよ。しかもそんなひとが、一人だけじゃないんだよ。こんなに幸せなことってないでしょう?」って。

何かの型に嵌まらなければ生きにくいこの世界は、あんまりわたしにやさしくはないけれど。
それでも、だいすきだよ、世界。わたしの大事なひと達を乗せて回ってるから。
重たくないように、誰も傷つけないように、なるだけ上手に愛するから、願わくば、嫌いにならないで。


なんてねー。
いやぁ、これで何人友達減るかなー。会社で仕事干されちゃうかなー。
広いネットの海で、フルボッコにされたらどうしよう。

あ、ちなみに、異性愛・一夫一妻制を規範としていて、マイノリティを快く思わない人達のことを、わたしは酷いとか嫌いだとかは思わないです。
そういった方々は、その規範の中で恋愛をして家庭を築くことで、秩序と安寧を保ってきたのだから、それを破壊しかねないわたしのような存在は許せない、理解できない怖いと思って当たり前だと思っています。うんうんそうだよねって思う。
だから、解ってくれなくていいので、何か上手く、お互いに思いやって程よく棲み分けして共存できる道が探れないかな、と。

こんな重過ぎる話、はてな匿名ダイアリーにでも投げた方がひょっとしたら適切なのかも知れないけど、でも、こういう風な価値観で生きている人間がいますよーという一例をわたしが晒すことによって、何か少しでも歩み寄りができるきっかけができたらいいなぁと思ったので、敢えてnoteを選びました。

ちょっと生まれ直した気分。改めまして、初めまして世界。

ひとの心と関係って、そんなに簡単じゃないよね。
幸いにも、わたしはそれを人並み以上には多少上手く言語化できる力を持って生きているので、よかったなぁと思いました。
重過ぎる感情をほどいてくれるのは、いつだって言葉なんだよ。
人間でよかった。ちょっとバケモノじみてるけどな。

おわります。


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