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「自由」のために「教育」は生まれた

エドカフェ No.8 「学校の本質は何かを考える」木村泰子さん&苫野一徳さん登場!まとめてみた

本質からずれてしまった「教育」

人間にはみんな「自由」への欲望がある。
その昔、人は自由への欲望から奪い合い殺し合いが絶えなかった。
これじゃあ自由じゃない!!
そこでみんなが自由に生きるために「教育」が生まれた。

自由に生きる力をつける。
他者の自由を認める(自由の相互承認)感度を育む。
この二つが学校教育の1番の本質。

ところが・・・
「自由」の実現のためのはずだった教育は・・・
現実には近代化に際しての均質で上質な兵隊や労働者をつくるために始まってしまった。
この、本質が見失われた教育が、今も残ってしまっている。

受動的忍耐(みんなと同じ力をつけ、みんなと合わせるための我慢)
→こちらに重きを置きすぎているけど 
能動的忍耐(本当にやりたいことを実現させ、自分の人生を切り開く粘り強さ)→自由の実現のために育みたい力はこちら

学校には「自由」に対するアレルギーがある

自由・・・わがまま自分勝手というイメージ。子どもたちに自由を与えると収拾がつかなくなって、先生が困るから避けたい!という思い込みからくるアレルギー。
でも本来自分勝手では自由に生きられない。生きたいように生きるには、他の人の自由も保障することが大切。

「自由」という言葉のとらえ方がバラバラだと目的も見失う。対話による共通了解が大切。

教育の偉人たちの言葉

モンテッソーリ・・・大人は自分の言う通りになると子どもが成長したと思うけど、それは子どもを無力にしているだけ
ルソー・・・あれしろこれしろあれだめこれだめと言われて育つと、呼吸しなさいと言わないと息しなくなるよ!

学校の役割は?

自分の選択決定がちゃんとできる場。
安心して失敗できる場。
けんかしても自分で人間関係をもう一回つくりなおせる場。
よく規制された自由の中で、自由を行使して調整し合うことで、自由になることを学ぶのが学校。

<みんなの学校エピソード①>
せいしろうが自ら語った言葉は、まさに自由の相互承認を学んだ証!
「自分が行けない学校に行けるようになったのは、まわりが自分の自分らしさや、自分が自由に行動することを認めてくれたから。」(卒業式でのせいしろうの言葉)
「僕自身がとなりの人の自由を尊重しなきゃいけないということを、大空で学んだということに気づいた。」(高校生になったせいしろうの言葉)

だから教育って楽しい!これが学校教育の本質。希望がある!

逆に・・・
トラブルを避けようとするあまり、ルールが増えていくと→他者に対して「だめだめ」になっていく→「だめだめ」言われたら他者にも寛容になれなくなる→どんどん自由さが減っていく


<みんなの学校エピソード②>
大空小では「すべての子どもの学習権を保障する」これだけが理念。これを守るのが公教育。「これに反対の人?」誰も反対しなかった。

「そのために何が必要?」の問いに、なんのアイディアも出なかった。それぞれ紙に書いた。みんな書けなかった。問いが悪い。

問い直し「今までの経験で、学校の風土、学校の文化、先生の指導で、理念に反すること(悪しき学校文化)を書いて」
これなら山ほど書けた。事務や用務員給食など、すべての教職員が無記名で書いた。教員と職員の違いがはっきり出た。100以上出た。一覧にして全員で読んだ。それぞれの本音が出た。過去を否定するのは人間得意。

こんな先生がいるから子どもは来れない。
こんな空気があるから職員室は・・・
学級王国なんて悪の根源。
参観日なんて見せるだけのため。
力で子どもを指導できるか?
などなどなど・・・

「すべての子どもの学習権を保障するために残した方がいいものは?」
ひとつも残らなかった。結局全部捨てることになった。捨てたくなくても捨てなきゃしょうがないと納得した。自分が困った。ひとりでは無理だって判断した。だから繋がった。 

すごい!

「しんどい」と言ったらバトンタッチ!しんどい人間が行ったらよけい悪くなるから。

言っていいんだって思わせた。リーダー自らがその姿を見せた。
それこそがリーダーの役割。立派じゃなきゃいけないじゃなくて、いっぱい失敗したらやり直しして、人のせいにしないで、社会で通用する力をつけるために大人が楽しそうにやってる。先生が失敗した〜やり直す〜ごめん〜って。子どもは大人の姿を未来の姿として見ている。職員室が明るい。子どもは困れば職員室にくる。それを感じるから子どもも同じようにする。さらけ出してくれるから安心する。失敗も困ったことも。

足元見られたらダメ?なめられたらいけない?ちゃんと管理して学級を崩壊させないようにしなきゃ?それじゃ苦しい。
違う考えも安心して言える。違うからこそ補い合える。社会もいっしょ。

「対話が大事!対話をしましょう!」になったら違う。対話はマニュアルでも目的でもない。

自分の言葉で語れる環境さえ整えれば一年生でも語り出す。

多様性が大事!学年、障害などで分けるより、いろんな人がいる場所で学ぶ方が自由の相互承認の幅も広がる。多様性があたりまえになっていくんじゃ?

指導でなく環境をつくる。これが税金で給料もらっている公務員のあたりまえの仕事。その中で未来の社会で生きる力をつける。自分の力を試す場が学校。そのためには多様な空気の学校にする。学校で働く人だけでなく様々な人がいる多様な環境。イベントのときだけでなく、日常的にいろんな人がうようよいる環境。

環境さえつくれば、いじめも、不登校も、モンスターも、先生のうつ病も、みんななくなる。なんでやらへんの?!


<みんなの学校エピソード③>
独自の教科として「ふれあい科」という教科つくった。学校以外の他者と出会う。関わる。ふれあう中につながりできる。学びがあるところに感動が起きる。感動が起きたところに愛が芽生える。(教頭がキザなこと言ってた)
学び→感動→愛 心が動く教育実践をしよう!

おじいさん、おばあさん、外国人、学生、など異世代で「この学校もっとこうすればいい」とか、「ここでカラスの問題あるからどうする?」とかみたいなプロジェクトチームをつくってやっていい。指導要領でもどんどんやっていいことになっている。校長の創意工夫でやれる。

勝手にプロジェクトが生まれる。雑草抜いてくれたり。PTAがなくても、やりたい人が集まってプロジェクト。やって楽しかったら解散する組織SEA。
Sサポーター
E エデュケーション(教えるんじゃなくて子どもの力を引き出す)
A(組織)

1年間終わったときに指導計画ができる。やってみないと指導計画はできない。

ずるいこといっぱいしたけど、理念だけははずさなかった。

泰子さんの話に一徳さん感動!

もうやっちゃってる!すごい!圧倒される!
あらかじめ決めたカリキュラムのスーツケースに子どもたちを当てはめていくんじゃなくて、探求型の学びに、ここにこういう価値があるんだって見とっていく後追い型へ。「全校道徳」にしても「ふれあい科」にしても、新しいカリキュラムの編成思想をもうやっちゃってる!

泰子さんにとってはあたりまえ!

難しいことはわからないけど、これが普通!あたりまえ!子どもを見ることと世界を見ること。それだけ見てたらいろいろ生まれてくる。他は見なくていい。今困っている子は?と見る。この子らの生きる10年先の世界はどうなってる?これだけ見ればいい。それをやっただけ。

教育委員会は、学校が見つけた本質を本気で支援すればいい。学校現場が最も活性化するためにどうするか?管理監督と支援の支援の方に力を入れればいい。

参加者もわくわく!

教育という仕事にわくわくしてきた!泰子さんの実践のお話に共感・あこがれ・覚悟を感じた。一徳さんの教育の歴史やこれからこうあるべきという理論から、これからの方向が明確になっていることがわかった。そして、それを実践できる場がここにある。あとはやるだけ!


<みんなの学校エピソード④>

なぐる子のそばにいつもいた子を先生たちはいつも気遣った。「大丈夫か?」といつも声をかけた。その子は卒業時こんな言葉を残した。
「なぐる子やいじめる子がいるのはあたりまえ。やられたくなかったら近寄らなければいい。ぼくは1番なぐられたけど、いやじゃなかったからその子のそばにいた。1番しんどかったのは、なぐられるたびに先生たちに『大丈夫か?』と心配されたこと。」
先生たちは「ガクッ!」と落ち込んだ。 

ちゃんちゃん!

参考に・・・↓


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