感動なんてしてちゃだめ!自分はどうするの?〜誤解される場面の裏話〜
<映画の裏話が凄すぎるので書いてみた>
エドカフェ No.6 「クラスの中の多様な子どもたち」木村泰子さん(映画「みんなの学校」の校長先生)より
「みんなの学校」の映画で、「この場面だけは使わないで!」と最後の最後まで校長が監督に拒否していた場面
絶対理解されないと思った場面
体罰?パワハラ?保護者からクレームが殺到しそう・・・と、映画を観た人たちも疑問だらけになる場面
その場面の裏話。
問題の場面とは?
ゆうくんが泣きながら教室を飛び出した。
「どうしたの?」と聞くと
(全校道徳の感想?を書くプリントに)「わからんて書いたらあかん!て言われた!」
校長教頭がその子を引きずって教室へ連れ戻す。(体罰?)
みんなが集まってくる。
みんなの前で校長が相手のまさやという子に「あなたは間違ってます!」とめっちゃ上から目線で言う。(パワハラ?)
でもこの場面の裏には様々な背景が・・・
ゆうくんとはどんな子?
ゆうくんは耳が片方ない。髪の毛でずっと隠してきたが、幼稚園時代からずっといじめられてきた子。
大空小にくる時、この子は片耳がないということをみんなに言うか言わないか?ずっと隠し通すのか?事前に保護者や本人と何度も対話をした。
「そんなこと言ったらいじめられないか?」と母は心配した。
「それはわからない。」と校長。どっちにしても「うちの子は耳がないからかわいそう」と、ずっと隠して守っていくのか?
障害は恥ずかしいことなのか?
隠さなきゃいけないことなのか?
それで将来この子は堂々と生きていけるのか?
今守ることより、10年後、20年後の社会でどんな人になってほしいのか?
そんな対話をお母さんが安心するまで何度も重ねた。結果その子自身が「言った方が隠さなくていいし気が楽だから言って」と言った。
そして全校の子に「この子は片方の耳がない」ということを初日の紹介で言うことになった。
生まれた時耳がひとつしかないことに、この子自身はもともと何も困っていない。まわりとの障壁に困るだけ。障害をもつ子をいくらまわりになじませるために変えようとしたり障害を隠そうとしたりしてもずっと苦しいまま。子ども同士の関係をオープンにしていけば障害がある子も安心するようになる。まわりが変わることによって本人は安心してみんなといっしょにいられるようになる。
まわりがこの子の存在によってどんどん成長していく。
「あなたは間違っています!」の前後のやりとり
校長はまさやに聞いた。
「わからんて書いちゃだめってどんな気持ちで言った?」
まさやは黙る。校長は選択肢を与えた。
①わかってほしい。助けたいっていう気持ち?
②この子困らせたろっていう気持ち? どっち?
嘘でも①って言ってくれたら校長は引けた。でもまさやは②って正直に答えた。(罰や説教はなく、「やり直し」しかない大空小の子は嘘を言わない)たったひとつの約束(人にやられていやなことはしない)を破ったまさやに、そこで引けなくなった校長は「間違ってます!」と言ってしまった。
ここからは当人同士の対話。大人はいっさいジャッジをしない。
「わからんて書いちゃいけないって言ってごめんね。」とまさやが言う。
「ぼくもうでをひねった。ごめんね。」とゆう。(ゆうが暴力でやり返していたことは、この言葉を聞くまでまわりは知らなかった。)
「もう暴力しないでね。」
「わかった。」
その後まさやは変わった。ゆうもいっさい暴力を振るわなくなった。お互い納得した。
これが大空小のやり直し。
引きずって教室へ連れて行ったのは・・・?
教室を出るとき、ゆうは捨て台詞を残した。
この学校も結局一緒じゃないか!居場所なんてないじゃないか!という気持ちから、
「こんな学校二度とくるか?!」と言って飛び出した。
その教室へ、のこのこ戻るのはゆうのプライドが許さないだろう。校長は咄嗟の判断で「ええねん、あんたは来るのいやでも引きずられて来てるんだから・・・」という体にして引きずって連れ戻した。
まさやとはどんな子?
まさやは勉強もスポーツもできる。できて当たり前の環境で育ってきた子。できて当たり前という環境を背負ってきた子。他で怒られるようなことがない子。
ここを脱しないと評価をされることを目的に、自分のありのままを出せずに学力が伸びていかないと校長が思っていた子。これはまさやにとっても変わるチャンス。
この事件が3年生のとき。映画で使われたのが5年生のとき。
映画の中のあの場面は、校長が悪く思われる場面だから絶対使ってほしくなかった。「お願いだから使わないで!」と監督を説得し続けたが、なかなか納得してもらえない。そこで、使えない理由として、まさややその家族が承知しないだろうと監督に言うと、じゃあ確認しようということになった。
まさや本人にその場面を見せた。本人が嫌って言ったらやめようということで・・・。
当然「いや」と言うと思った。が・・・「全然構わない」と言われた。
「ちょっと待って!おうちの人も観られたら困らない?世界中に知られるんだよ。」校長は使われたくないから断るよう洗脳した。
お母さんにも確認することになり、母にも断るように事前に頼んでから映画を見せた。そうしたら母はその場面を見てポロポロ泣き出した。
「ほらね、こんな場面見せるから・・・」と校長が思っていると・・・母は「まさやはどうなの?」と聞いた。「ぼくはいい」とまさや。「なんでいいの?」と聞くと、
「これは過去の姿。今の俺はやり直ししてる。このことでいくら悪く言われても今の自分はやり直ししてるからどうってことない」とまさやは言った。母は泣きながら監督に「依存ありません。使ってください。」と言った。「えええ?!」となった校長に、「うちの子をこんなふうに育てていただいてありがとうございます。感謝しかありません。」と母。
公開日、舞台挨拶の後、おばあさんと高校生が監督のもとへ来て言った。
「本当にいい映画をつくっていただきありがとうございました。」と・・・。
それはまさやのおばあちゃんとお姉ちゃんだった。
この場面はたくさん誤解を生んだかも知れないが、裏では校長が1番やり直しをさせられた場面だった。まさややその家族のことを何もわかっていなかった自分に気づかされた。
感動なんてしてちゃだめ!自分はどうするの?っていう話です!
エドカフェにはこんなエピソードが山ほど出てくる。そりゃそうだ!日常がこうして繰り広げられているんだから。
そこにいるのは特別な先生や特別な子じゃない。これはどこでも誰でも実践できること。やろうとするかしないかだけ!
私は私にできることを見つけてしよう!
と思わせてくれる。
詳しくは木村泰子先生の語りで是非!↓
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