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本音が言えたら対話スタート!

エドカフェ No.4 「対話〜学校で対話はなぜ必要か〜」木村泰子さん(映画「みんなの学校」の校長先生)のお話をまとめてみた

対話は本音から

「あの子また私の方向いてくれん。どうしたらこっち向いてくれるんやろ?」
「もうしんどい、明日休みたい」
そこへまわりがどんな言葉を重ねていくか?
「こんなん言うたらあかんかな?」って考えて出てくる言葉は本音じゃない。
自分だけいいこと言ってつながろうとしても、対話にならない。

例えば・・・
「あ〜腹立つ!」「どうした?」「くそばああって言われた!」 
そこで、「あの子いやらしいね。」「あの子ね、去年もこんなだったよ。」「親の躾が・・・」とか・・・これだけだと質の悪い雑談。
でもそういうこと言う人はいくらでもいる。それ前提でないと綺麗事で終わってしまう。

そこで、例えば三人目が
「やったね!ワンステップクリア!」とか、
「見方変えてみ?それってありがたいことじゃん?」とか、
「え?なんで?ちょっとさあ、子どもの悪口言って終わったら私ら給料返さなあかんで!」とか、
そういう返しが、その人たちを変えるエネルギーになる。

いろんな立場、いろんな経験値の教職員が、対話によって、「この人こんなこと考えてるんだな」とお互いを知って自分の世界を広めていく。失敗経験値も合わさって混ざり合って対話するから、気づいたらチームができている。だから・・・

ほろっと出た本音が対話のスタート!


対話(雑談)しないから忙しい?

先生たちは「忙しくて雑談なんてしている暇がない」と言うけれど、それは逆!
雑談しないから働き方改革いくらしてもよくならない。

大空小は、いろんなアイディア、カリキュラム、など日々の実践はすべて雑談から生まれた。

「あの子困ってる どうしたらいい?」「よし、わたし行ってみるわ!」
「校長ここ謝らな!」などなど・・・

会議となると、本音が出てこない。「ご意見ありますか?」「今の意見に対してみなさんどうですか?」「はい!」みたいな感じになってしまう。

あるとき若者が言った。
「会議は必要ですか?会議で今更何を決めるんですか?」

雑談しながらやっていくうち、「よっしゃ!明日はこれでいこう!」とか、「あ、それわたしまとめてやるからこっちお願い!」とか、どんどん学校はまわっていた。改めて会議をする必要はすでになくなっていた。

得意不得意がわかってきて、それぞれが適材適所に働くことで事務的な仕事がスリムになっていく。さらに雑談を地域の人や保護者に広めていくことで、任せられることも出てきて、先生たちは授業の準備など子どもにつながる仕事に使える時間が増えた。

雑談(対話)が働き方改革につながった!


禁句はこれだけ!

「誰々のせいでこれができない・・・」みたいな、他人のせいにして吐く言葉だけは禁句!
「しんどい」とか、「明日休みたい」とか、「この子の相手はもう無理!」とか、「これどうやって教えたらいいかわからない!」とか、「給料安すぎ!」とか・・・そんなのはいくらでも出したらいい。

ただ人のせいにする言葉だけはアウト!

気づかずして誰でも言ってしまうことはある。私もある。そんなとき、
「校長今のアウトやで!」「はい、やり直します!」と言い合える関係。
みんなとそんなふうに繋がれなくても、繋がれるところがあればいい。
「今のアウト!」「バキュン!」ってにこやかに軽やかに言って去ればいい。「あ、人のせいにしてたら自分の学校つくれない」って気づければいい。
「先生、そんなこと言ってはいけません。」みたいなのは正しいかもしれないけど、正解をちらつかせるような空気は分断を生んでしまう。

どうしたら本音が出る?

「硬い雰囲気でそんなこととても言えない」
「まずそういうこと言える安心安全居心地のいい土壌をつくらないと・・・」と考えてしまうけど、土壌をつくるのと本音を語るのとどっちが先か?

言わなきゃ対話の土壌はつくれない。行動しなきゃ生まれない。

「こんなこと言ったらどう思われるかな?返って悪くならないかな?」とか考えてしまうのなら、そこで無理せずまわりの力を借りる。例えばこの人になら言えるという人をさがして「あの人にこう言ってあげた方が絶対いいと思うけど、言えない。」と打ち明ける。「じゃあ私なら言えるから言ってみるよ」とか「いっしょにいってあげるよ」とかいう展開もあるかもしれない。そうやって、言いやすい人と「アウト」の関係(本音を言い合える関係)をつないでいく。そうすれば広がっていく。私みたいに考えずにすぐ本音を言っちゃう人と、この人どう思うかな?って考える人と、いろんな人がいてチームが成り立つ。

上司と部下、先生と子ども、「はい」って言えば本音を言わなくてすむという上下関係を壊していかないと対話は生まれない。
大空小では「わかりましたか?」をやめようとか、「はい」と言わせないとか、子どもが自分の言葉で本音を語れるように、様々なチャレンジをした。

言葉をもっていなくても対話はできる

例えばすべての子がレギュラーになれる教科は「音楽」
寡黙の子でも参加できる。言葉をもっていなくても対話が成立することはいくらでもある。

唾を塗りつけてつながった関係

教室へ入らない転校生がいた。誰ともしゃべらない。「こんな学校出ていってやる〜!」と言って荷物をバン!と投げつけるような女の子。
ある日その子が、休み時間みんなが遊びに出て行った教室でひとり泣いていた。その周りを言葉をもたないまーちゃんがうろうろしている。まーちゃんは手にいっぱい唾をためてその子の顔にべーっと塗りつけた。「やめて!」と言って女の子は顔をあげた。目と目があった瞬間、まーちゃんはにこーっと笑った。それ以来女の子はまーちゃんがいることで安心して教室へ入れるようになった。
この二人、映画の中ではしっかりした女の子が障害のある子の手をひいているような麗しい場面として映っているかもしれないけど、違う。その子はまーちゃんと対話でつながったおかげで安心して学校へ来れるようになった。

目と目、身振り手振り、表情、または、読書での作者と読者など、ときを超えてつながる対話もある。感動しすぎて言葉をなくした瞬間のみんなで感じる空気・・・すべて対話。例えば音楽を聴いたときなど。自分以外の何かを見たり聴いたりして心がぐーっと動くときに対話は生まれてくる。

対話的学びってどうやってやるの?

「わかりましたか?」って聞けば子どもは「はい!」って言う。「わからないとこどこ?」って聞くと「ここ」「こことここ」「全部」と返ってくる。そこで「あ、わからないの自分だけじゃなかったんだ。」「わからなくてもここにいてよかったんだ。」って思って安心する子も出てくる。そこから学びが始まることもある。
会話してるつもりでも一方的に押し付けたり、相手を変えよう変えようとしていたら対話にならない
心と心がつながれば言葉がなくても対話は成立する。
こちらが変われば相手も変わる。

心が動く 空気をつくる

この二つをキーワードにした。

「心が動くことやろう!」これを大空では1番優先した。でもこれは評価できない。自分の中で対話するしかない(今心動いたよな・・・)数値で評価なんてできない。
「心を育てる」とよく言うけど、いくら相手が子どもでも、他人の心を育てるなんてできる?


全校が集まってわあわあしている場面で、誰も「静かに」とか言わない。しばらくして6年生のリーダーが「空気つくろう!」っていう。ピターっと空気が止まる。
「空気作ってるのだれ?」「自分」
自分がつくる空気だからみんな大事にする。
みんなが安心できる空気もみんながつくる。

対話を諦めていませんか?

家庭でも、職場でも、「私がこんなこと言っても・・・」と言いたいことを伝えることを諦めていませんか?・・・っていうことは、子どもも先生に伝えることを諦めているんじゃ?問い直してみよう!
対話は普段の努力。学校をよくしていく、生活をよくしていく、社会をよくしていくことにつながる。
自分の言葉で語れる人と人がいれば対話はできる。
自分と違う経験や考えをもつ人とつながるツールが対話。

本音を言うと怒られる?

ずっと学校へ行けていなかった子が、自分の言葉で語れるようになったら、学校へ来れるようになった。「うるせえ」「うざい」「別に」「無理」としか言わなかった子が・・・。その子は教えてくれた。前は「僕はこう思っている」って自分の言葉で本音を語ると怒られた。でも、「これ言ったら怒られるだろうな」と思いながら言った言葉に「そうなん?そう思ってたん?しんどかったな。よう言えたやん。」て、聞いてくれる大人がいたことで安心した。だから自分も友だちに対してそうしようと思った。

また子どもに教えられた。



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