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#62 「子どもは案外、見抜いている」

さとゆみさんの連載「今日もコレカラ」を読み、感じたことを書く。引用リプじゃおさまりきらない、グルグル余韻の言語化トレーニング。

だいたいにおいて、それが先生であれ社長であれリーダーであれ、誰もが人生の学びの途中である。私、なんで、正しくなければいけないなんて思い込んだのだろう。というか、これ、私以外の先生や編集長に対しては、全然期待したことない。なんで自分に対してだけ、こんなことを思ったのだろう(これには理由が7つほどあり、こちらはこちらで別の考察と対策をしたが割愛)。

さとゆみの「行き詰まり問題」についての考察(「なぜ、さとゆみの文章はつまらなくなったのか?」)【さとゆみの今日もコレカラ/第252回】


ほんまそう。子どもたちも、先生が間違えることぐらい分かっている。むしろ、失敗する先生のほうが、なんやかんや愛されていたように感じる。


教員1年目のころ、専科を担当したあるクラスの先生(先輩)が私にこう言った。

「失敗しても絶対に、謝るな。子どもに舐められるから」

その先輩は面倒見のいい人だったし、よく飲みにも行った。けれど、この考え方だけはどうしても同意できない。

「相手が子どもであれ、間違えたときは謝るもんでしょ」

心の中で反発した。

舐められる・舐められない以前の、人としての問題だと思う。


ある日、早めに教室(先輩のクラス)に着くと、子どもたちの雑談が聞こえてきた。

「〇〇先生(先輩)って、自分が間違っていても、絶対に謝らないよね」

「そうそう、だから信用できないんだよ」

「私たちのこと、子どもだと思ってバカにしているよね」

「何も分からないと思ってるんだろうね」

ひょえ〜〜〜〜〜

平然を装いながら授業の準備をしていたけれど、きっと背筋が伸びていたと思う。

子どもって、大人が思う以上に、大人の本質を見抜いている。

ある意味、誤魔化しのきかない相手といえよう。

✳︎

話はちょこっと変わり。

忘れもしない、教員1年目の大失敗。

家庭科専科だった私は、5年生の調理実習でやらかす。1番最初の実習だから、急須を使ってお茶を淹れるという内容だったのだが、お茶っ葉の文量を大幅に間違えた。

そうとはつゆ知らず。

子どもたちを前に集め、手本を見せる私。一度急須にお湯を入れて温めておくことや、茶葉を入れてどれぐらい待つかなど、ポイントを説明しながら実演する。

「では、最後に緑茶を飲んでみます」

そう言いながら口にした瞬間

「にっがー!!!」

思わず心の声がだだもれに。子どもたちは大爆笑。

教科書の分量の10倍を入れていた(0を1つ勘違いしたのね。おバカ)。

「先生、分量間違えたんじゃないの?」

そう言われ、う・うん、とうなづく。

全体の前で、「先生、分量を間違えてしまった!ごめんなさい。教えてくれてありがとう。各グループ、分量を減らしてから実習してください」

と説明した。

子どもたちは、そんな私を笑いはしたものの、バカにはしなかった。

「先生、ドンマイ」「だれにだって、間違いはあるよ」

と受け止めてくれたのだ(あってはならん初歩的なミスよ、マジで)。

もうひとつ。

そんなエピソードを重ねるうちに(ちょいちょいボケをかましてしまう性)、子どもたちとの距離が近づいた。

そんなときに、ふと思う。

「子どもたちって多分、完璧な先生ではなくて人間味のある先生を求めているんやろうな」

✳︎

担任になってからも、私は必ず学級開きで「先生も人間だから、間違えることがあります。間違っていると思ったら、遠慮なく教えてください」と伝えてきた。

長男にも、

「ママも〇〇くん(長男)と同じで、成長している途中なんよ。もちろん一生懸命やけど、全部が正解ってことはない。だから、おかしいんちゃう?って感じたら、言ってね」

と伝えている。

自分もあの人も、名の知れた教授だって、みーんな、人生の途中。いいところもあれば、悪いところだってある。完璧ではないし、完璧でなくていいんや。

そう思えたときに、「〜のくせに」のブロックも外れた気がする。


失敗したらアカン!って気負うより、失敗を認めて謝れるほうがずっと楽。ほんで現実は、そういう人間くさい人が信頼されるんよね。

だって安心やし、そもそも人間の時点で「完璧」なわけがないんよ。

あーさとゆみさんのこと、いちだんと好きになったな。

▼7月10日の午前7時ごろまで読めます!こちらもぜひ♪





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