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#32「叱咤と激励」

さとゆみさんの連載「今日もコレカラ」を読み、感じたことを書く。引用リプじゃおさまりきらない、グルグル余韻の言語化トレーニング。

この3行で終わる茨木のり子さんの詩は、戦争があった時代を思い返して書いたと言われている。

コロナ禍といういわばある種の戦場で生きなくてはならなくなった時に、この詩は「言葉ぐすり」のように効いた。

ささくれだった心をじんわりと包んでくれるような薬ではない。頬を張られ、「目をかっと見開け」と頭を掴まれたような力で、現実と対峙させられた。その圧倒的な言葉の力が、あの時代を乗り越える支えになった。

言葉ぐすり、ひとつ【さとゆみの今日もコレカラ/第222回】


すぐに全文を調べ、拝読した。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて


気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか


苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし


初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった


駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄


自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木のり子 詩集「自分の感受性ぐらい」


グサリときたのは、終盤の二連。特にココ。

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

茨木のり子 詩集「自分の感受性ぐらい」

だれかのせいにして、自分から目を背ける。
それってつまり、自分自身の尊厳を踏みにじる行動よね。



今は、「共感」「傾聴」がいいこととされている。褒めて伸ばす教育が主流となり、多くの親や教師も、激励をする一方で叱咤は控える。

うまくいかないのは、環境のせい。

親ガチャに外れた時点で、自分なんて何をしてもダメなんだ。

頑張っているのに、だれも評価してくれない。

こんな甘えすら、「うんうん、分かる。そうだよね〜」と受け入れられてしまう。



でも、心地いい共感の果てには何があるんやろう?

✳︎

理不尽極まりないパワハラを1年ほど受け続け、気付いたことがある。

結局のとこね、「自分」なんよ。
自分で乗り越えるしかない。


公務員の世界ということもあり、上司にたてついてまで守ってくれる人はいなかった。

一番近くで見ていた当時の主任でさえ、「守ってあげられなくて、ごめんね」と言った。

みんな、生活があるんやから当たり前。
責めるのはお門違いだ。



どんなに愚痴っても弱音を吐いても、現実は変わらない。

つらい、苦しい、なんで自分だけ。

そう思う自分自身を変えるしかない。


荒波にのまれて溺れるか、悠々とサーフィンを楽しむか。

自分の考え方次第で、世界はガラリと変わる。

✳︎

結局のところ、人を奮い立たせるのは「叱咤激励」ではないだろうか。

もちろん性格にもよるだろうけれど、少なくとも私の場合は「がんばっているね」「うんうん、分かるよ」の激励だけやと、

「もっとゆうて〜」「もっとやさしい言葉をください」

と、どこまでも落ちていく。
心地いい抱擁に立ち上がる気力を失い、いつまでもぬるま湯につかり続けるだろう。


岡田尊司さんの「生きるための哲学」の一節にもつながるな。

「死ぬな」「生きろ」と肩をつかんで揺さぶる方が、何も言えない高尚な哲学などより、よほど助けになるかもしれない。

「生きるための哲学」


肩をつかんで揺さぶる。

ああ、そうか。

自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木のり子 詩集「自分の感受性ぐらい」


この詩には、「甘えるんじゃない」という厳しさに、「じゃないと、いつまでたってもそのままよ」との温かさが込められているのかも。

受け取り方は人によってさまざま。

短文でこれほどまでに人生を想起させるって、すごいなぁ。



▼6月10日の午前7時ごろまで読めます!こちらもぜひ♪







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