ノルベルト・エリアスに対する私の評価とその理由ー「舞台裏としての心」という概念から考える

1. はじめに


現代社会に生きる私にとって、ノルベルト・エリアスが考えた「舞台裏としての心」という概念からは考えさせられることが多くあった。したがって、彼の提起した概念と現代社会を紐付けながら、現代社会における「心」について社会学的考察を展開したい。

2. 現代社会における「心」について


2.1 ノルベルト・エリアスについて


ノルベルト・エリアスは、ユダヤ系ドイツ人の社会学者である。同時に彼は亡命人でもあり、時代の影響を大きく受けた知識人の一人である。大学へ進学するための資格を取得後、ドイツ帝国軍で勤務するもストレスのために退職を余儀なくされた。その後、ブレスラウ大学に進学し、1924年に卒業した。卒業後はマックス・ウェーバーの弟であるアルフレート・ウェーバーの研究を手伝うために、学生時代に在籍経験のあったハイデルベルク大学に移ったが、最後まで研究プロジェクトに参画するはできなかった。それから、フランクフルト大学のカール・マンハイムの研究助手となった。しかし、ナチ党政権下では研究を継続することが困難になり、フランスやイギリスに亡命した。亡命後は不安定な生活を余儀なくされた。ロンドン滞在中にマンハイムに滞在し、研究を再開したが宥和政策によりマン島に強制送還された。1940年には父を亡くし、1941年には母がアウシュビッツ強制収容所で殺害された。
以後、レスター大学やボーフム大学、ビーレフェルト大学で教鞭をとり、1990年アムステルダムの自宅で息を引き取った。

2.2 彼の存在条件とその条件下で考えたこと


不本意な形で両親を失ったということ、ナチ時代ということの二つの要素は少なからず彼の研究活動に作用したと思われる。それらの理由として、「死」や「暴力」を題材にした研究が多数あることが挙げられる。加えて、その他にも、「『文明化の過程』が第2次世界大戦の開始時に出版されたということは、ある意味で皮肉である。なぜなら、当時世界は本書のタイトルが示す「文明化」とは正反対の方向、つまり未曾有の文明破壊の方向に向かいつつあったからである」(大平 2009:184)ということからもわかるように、「死」や「暴力」の象徴とも言える世界大戦へと向かう狂暴な社会にも彼は感化されたと考えられる。
そのような社会情勢、時代背景の中で彼はどのようなことを考えたのか。文明化を中心として文化やマナー、暴力、スポーツ、身体、国家など多角的な概念から社会について多くの記述を残している。「研究対象の発展的性格を捉えるために多様な視野を導入し、同時に経験的な見地から引き出される豊富な諸例によって段階的に自らの社会学的方法論の妥当性を立証しようとしているのである」(大平 2009:188)と大平は彼の研究態度を評価している。エリアスは文明化、ひいては近代化へと向かう激動の社会に身を置きながら、未来の社会学の発展に寄与するような研究を行ったと言える。
エリアスが生きた時代から見れば、私は未来を生きている。彼が、「未来の社会学の発展に寄与する研究を行った」と前述したが、特に「舞台裏としての心」が生成されたという彼の知見からは、今この時代に社会学を学ぶ私にとって学ぶことが多い。彼は、文明化の過程において社会の規範は外敵強制から自己抑制へと変容したと説明している。また彼によれば、⻑期的な利害を考慮し理性的に振る舞うという宮廷的合理性と、他者の心を読む人間観察術を持ち合わせることが文明化した社会を円滑に営むことができるという。そして、その実践の帰結として舞台裏としての心が生成され、心は外界に対して内面に存在し独立的な存在となる。結果的には、「閉ざされた人間」が誕生したと結論付けている。

2.3 舞台裏としての心とSNSの台頭


システムやテックが高度に発達し個人主義や自助という言葉を頻繁に耳にする現代、心はますます脱舞台化し、心だけではなく身体的な孤独も顕著に見られる。街に目を向けると単身向けの住宅はたくさんあるし、飲食店を考えてみても1人向けに開発された客席も目立つ。また、私自身について考えてみても隣に住む人と顔を合わせても会釈する程度で場合によっては視界に入っても儀礼的無関心を実践する場合も多い。同じ自治体に住んでいても親しい「ご近所さん」ではなく「ストレンジャー」となった現代では近くに住んでいるという理由だけでは気軽に声を掛けることは容易ではない。
システムやテックの進展により「舞台裏としての心」が、より存在感を増しているのではないかという仮説が私の考えの前提にある。では、「舞台裏としての心」とは違ったベクトルで心の在処が変容したという可能性は考えられないのか。私は、現代社会において、現実の世界では心はより一層脱舞台化しているが、同時に仮想世界とりわけSNS上では心が舞台化するようになったのではないかと思う。実際、SNSのユーザーに裏アカを持つ者は多い。「裏アカ」というのは、裏アカウントの略語である。本アカウントでは現実社会の人間関係が継続して採用されたアカウントであるのに対して、裏アカウントでは本アカウントの人間関係が人為的なフォロー、フォロワー承認により細工されている。裏アカウントはポジティブな用途で使われることもあるが、ネガティブな用途で使われる場合も多い。例えば、極めてプライベートな内容を発信したり、他者に対して攻撃的な内容が発信されたりすることも多い。
現実世界で心が舞台裏に隠されることでストレスがたまり、心の叫びの吐口として一部のSNS空間が機能している現状がある。これにより、現実世界での生活が充実すれば良いが、翻って人間関係を悪化させりするなどの不具合すら生じさせている。決して良いとは言えない形で心が舞台化していることに加えて、SNSが心の表現場として過大評価されその過程で現実社会への関心が低くなり、結果的に現実社会での「心の通った交流」が蔑ろにされている印象を私は受ける。

3. むすびに代えて


文明化(近代化)が功を奏し、洗練された現代では合理化の名の下に様々なことが言語化、数値化され、心は時にノイズとして舞台裏に強制的に閉ざされることがある。しかし、「心」こそがヒトが持つ豊かさの根源であると私は考えている。だからこそ私は意識的に現実世界で心を舞台化する環境を作りたいと思う。そのためには現実をいかに距離化できるかが大事になると思う。マックス・ウェーバーの言う「鉄の檻」という言葉を借りれば、時には鉄の檻の外にも積極的に目を向けていきたい。具体的には、仲間と共に山登りやキャンプをしたりするなど、自然の中で仲間ともに無駄を楽しむことに豊かさを見出すということをライフワークとして取り組んでいきたいと思う。
インターネットやスマートフォンが急速に普及し、人間の活動空間が大きく広がった。そのような現代においてエリアスが提唱した「舞台裏としての心」は社会の様相を記述する上で大いに役立ったという点で彼の研究を高く評価することができるというのが私の最終的な結論である。(2,843字)

参考文献
ウィキペディア, 2023, 「ノルベルト・エリアス」
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB% E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%B9,2023年1月14日にアクセス).
大平章, 2009「ノルベルト・エリアス̶『文明化の過程』について」『Waseda Global Forum No.6』183-213.
大平章, 2016「『死にゆく者の孤独』について ̶ 死と高齢化の社会学」『Was edaGlobal Forum No.13』119-138.

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