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アンチ目標志向。プロになるには1万時間以上かかる。では1000時間で「それなりに熟達」するのはどうか。いやしかし、待て。


僕は瞑想が習慣だ。

とても気に入っている有用な習慣だ。

瞑想の効果は素晴らしいので、これを究極まで極めたくなってくる。

もし瞑想をこのまま極めて行ったら、どんな境地にまでたどり着くのか、それを体験してみたくなる。

ものすごく集中力が高まるかもしれないし、ものすごく心地良い感じ方をするかもしれない。

その世界を見てみたい。

でも瞑想を本当に極める人は、1日中、1年中でも瞑想をしているのではないだろうか。

これに追いつくことはとても出来ない。

そうだ、物事を極めるには1万時間以上が必要だという。だけどこのレベルを落して1000時間を目標にしてみてはどうだろう?

瞑想に限らず、1000時間かけて「それなりに熟達」した物事を増やしてみたい。

たとえば瞑想や歌、ドラム、ブログを書くこと、読書など。こう考えると、1万時間かけて物事を極めるよりも、随分簡単に感じられる。

だがしかし、待て。

僕は瞑想を1000時間もやって来ただろうか?

僕の意識としては、瞑想にはそれなりに熟達している気でいたが、ちゃんとした計測はしていない。

もしかしたら真実を知らされたら、200時間とか300時間とか、燦々たる時間数かも知れない。

1000時間にたどり着くまでは長い!

瞑想をしながら1000時間という時間についていくら考えても、時間はまるで進まない。

もどかしい。1000時間を目標にしてさえ、トータル時間を考えることが苦痛だ。

そもそも何故、時間数を目標にしたのだろう?

人間の頭というものは、容易に当初の理想を「現実的な指標」で書き換えてしまう。

たとえば僕が本当にしたいことは、瞑想によって「素晴らしい境地」にたどり着きたいということだったはずだ。それをいったん「瞑想を極める」と呼んだ。

だけど今度は「瞑想を極める」というキーワードに引きずられて、まずは他人との比較を始め、次には時間数を目標にしてしまうという「錯誤」を犯した。

「素晴らしい境地にたどり着きたい気持ち」と「習熟に必要な時間数目標」はまるで違う。僕は欲しいものは前者であって、後者ではない。たとえ練習時間が熟達に必要で、成果には熟達が必要なのだとしても、本当に求めているものは時間数、そんなものではないのだ。

目標志向の人は、そうすれば良い

計測可能な時間数などを基準にして頑張れるのならば、そうすれば良い。僕はそうではない。

僕にとっていつだって「計測可能な目標」は単に重荷にしかすぎず、物事の本質をごっそりと奪っていく敵だった。

僕はいつでもプロセスに集中したい。ただ今の瞬間を味わうことに集中して、それ以外のことは全て忘れていたい。それが結果的に熟達につながることもあるが、それはあくまでもおまけだ。

このことは改めて厳重に注意したい。

肌感覚を一歩も離れるな! 数字的な目標に決して踊らされるな!

心に誓いたい。


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